第四十九幕 高校生の恋の測り方


 午前の部最終競技、女子リレー。


 第一走者、第二走者とバトンが渡り、一位は赤組、次点で我らが白組、その後差がなく黄組と青組が続いていた。


 赤組はたいぶ余裕をもって第三走者の高島にバトンをつなぐ。


「生徒会長、あの感じなら水月で抜けるぞ」


 自信満々に時介が言う。


 確かに一位でバトンを受け取った高島はその長い金髪をなびかせグラウンドを疾走しているが、後方から水月がそれ以上のスピードで迫っていた。


 赤組、白組の両陣営から二人の名前を叫び応援する声があがる。


 すると、時介の考察通り、アンカーまで残り十数メートルのところで水月は高島を追い越した。

 歓声とため息がそれぞれ巻き起こる。

 しかし、まだ水月と高島の差はほとんどない。一歩半ほど水月が前に出た状態から、高島も必死に食い下がっている。

 その全てを背に受けた水月はそのままかろうじて一位を保ち、白組のアンカーへとバトンを繋いだ。

 間を開けず、高島のバトンも後方を見つめるアンカーの詩子のもとへと渡る。


「ごめん! 詩子!」


「まかせて、キャリー!」


 バトンを受け渡す瞬間、そんなやりとりをしたのだろうか。実に頼もしい表情で詩子がバトンを手に取り、正面を向き直り、駆け出した。


 その時だった。


 グラウンド中を歓声と悲鳴とため息が混じり合った有象無象たちの声が反響した。


 その有象無象の声の中には俺の声も含まれていた。



「あっ!」



 それはまるでスローモーションのように見えた。


 バトンを受け取った詩子が走り出そうと振り返った時、目の前には第三走者としてバトンを渡し終えた水月がいた。


 グラウンドを精一杯走った後の水月、役目を終えて疲れからかふらふらとしてしまったちょうどそこは、詩子の動線上だったのだ。


 二人ともそのまま転んでしまう。


 赤組からはため息と悲鳴が。後続の青組、黄組が倒れる詩子を抜かして赤組は一気に最下位になったのだ。

 

 白組は先にバトンを受け取ったアンカーの独走を声援で後押ししている。


 俺も白組の一員のはずなのに、転んだ二人から視線が外れない。



 バトンを渡し終えて捌けるところだった高島が彼女らのもとへ心配そうに戻ってくる。

 係の生徒も二人のもとに駆けつけたが、彼らの到着を待たずして詩子は起き上がり再び前を向いた。

 そんな彼女の様子を見た赤組からは大歓声。高島も飛び跳ねて応援していた。


 一方の水月は係の生徒に支えられてながら起き上がり、レーンから捌ける。遠目からよく分からないけれど、肘や手を気にしている様子だった。


「手……」



 ふと、彼女の嬉々とした報告を思い出す。


 水月はその絵画のスキルを買われ、学園祭の懸垂幕の絵を描かなければならないのだ。

 それだけじゃない。その絵画で進路を考えているのだ。万が一の事があったら、と俺は思考を巡らした。


「おいおい、大丈夫かよ……」


 隣にいた時介はじめ、白組の連中も水月の様子を気にかけ始めていた。



 さて、詩子はというと、水月との接触のロスを取り戻そうと険しい顔で前方を追いかけていた。

 赤組からはこれまでにないくらいの声援があがる。


 詩子の全力疾走は初めて見る。


 高島がリレーに推薦した理由が誰でも分かるくらいの快足だった。

 あっという間に青組と黄組のアンカーを追い越した。



 けれども、先を行く我ら白組のアンカーには及びそうにない。

 それでも一生懸命走る詩子。

 あんなに一生懸命な顔、見たことなかった。


「英ー! 走れー!」

「英さん! 追いつけるよ!」

「あきらめないで! 詩子ちゃん!」


 こんなにも他の生徒が英詩子の名を呼ぶことが今までにあっただろうか。


 彼女はもう忌み嫌われる学校一のヤンキーなんかじゃあない。




 結局、白組が一位のまま、リレーは幕を閉じた。


 こうして午前の競技が一旦終了。中間発表ののち、お昼休憩に入る。

 しかし、その中間発表に、詩子と水月の姿は無かった。




 お昼休みに入るや否や、高島が俺の元へやってくる。


「市川くん、ごめん私が変なバトンの渡し方したかも」


「いや、あれは仕方ないだろ。みんな一生懸命なんだから、誰にも非はない」


「……うん。二人ともいま保健室に一旦行ってるわ」


「そっか。ありがとう」


 金髪を寂しそうに揺らしながら高島が去って行く。

 入れ替わるように穣が飛び跳ねながらやってきた。おそらくお昼を一緒に食べようという魂胆だろうが、申し訳ない、と軽く詫びを入れて俺は校舎へと向かった。




 あれだけの盛り上がりを見せるグラウンドとは正反対に、校舎はいつになく静かだった。

 人の営みが微塵も感じられない校舎は不気味だった。


 少し緊張しながら保健室に向かう。

 詩子は走れてたから大丈夫だろうが、水月の手や腕が心配だ。美術部員の彼女にとって致命傷になりかねない。


 さて、保健室まで十数メートル、その扉を視界に捉えて廊下を歩く俺の目は、その扉が開いて中から体操着の女生徒が一人出てくるのを確認した。


 予想に反して、最初に保健室から出てきたのは、水月だった。


「あ、新太郎……」


 なんとも弱々しい様で水月はこちらを見つめ、歩み寄ってきた。


 俺は一度足を止めて彼女を待つ。


「水月、大丈夫か? ずいぶん派手にぶつかって……」


 と言いながら、彼女の全身を目でなぞった。いやらしい意味ではなく。


 見たところ、足に少しの擦り傷と、左腕にガーゼが巻かれているだけだった。


「左腕の擦り傷が思ってたより酷いくらいで、あとは特に。明日青あざになってなかったらいいな、ってくらいかな」


「利き腕は? 右はなんともない?」


 少し食い気味で彼女の生命線を案ずる。


「え、あ、うん。擦ったけど、怪我もないし、ほら」


 と言って右手を振って見せる。


 どっと肩の荷が下りた気がした。


「よかった……」


「心配してくれてたんだ」


「そりゃそうだろ。万が一利き腕怪我してたらお前……」


「……ありがとう」


 お互い少しだけ目を逸らしたのは、どこかに照れがあったからだろう。


 水月の無事を確認出来た俺は意識を再び保健室へと向けた。


「うた……。英は?」


「隠さなくていいよ」


「……そっか。じゃあ、詩子は?」


 妙な間が空いてから水月が答える。


「先に戻ったよ」


「なんともなかったのか。まああれだけ走れてたから……」


「……ごめん、嘘。まだいるよ」


「どっちだよ」


 なぜここで嘘をついたかまで、俺の考えは及ばなかったけれど、まだいるのなら一刻も早くその身の無事を確かめにいかねばならない。


 そう思って、俺は水月に礼を言って保健室へと歩みを進める。


 そんな俺がちょうど水月とすれ違う瞬間だった。


 体操服の裾を何かに引っ張られた。


 何か、は紛れもなく、水月だった。


 振り向いた俺は彼女のその表情までは確認することはできなかった。なぜなら彼女が俯いているから。


 一瞬、唇が動いて、なにか声が漏れた気がしたけれど、俺が聞き返すより先に水月は裾から手を放して俺に背を向けた。


「時介の借り物競争までには戻ってあげなさいよ」


 かすかに震えて聞こえるその声に違和感を抱きつつも、俺は気の利いた言葉のひとつも言えず、ただ「おう」と返すことしかできなかった。

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