第三十六幕 恋におちたヤンキー
この国から徐々に春と秋が消えていっているような気がする。
そんな熱光線が空から俺へ降り注いだ。
ダッシュで駅へ向かおうとしたのはいいものの、ほんの数秒でいつもの徒歩に戻した。この暑さの中、俺の体力が持続しない。ただでさえ気力が削がれている状況下なのだから。
しかし、そんな数秒のダッシュも確実に俺の体から体力を奪い、水分を奪っていた。
駅についたら自動販売機でいいから一本なにか飲み物を買おう。と、財布から百二十円をぴったり取り出して、握りしめながら駅へ向かった。
ちなみに、駅に併設されている駐輪所の裏にある自動販売機へと向かおうとした。
通勤ラッシュ帯ではあるけれど、このあたりはいつもいつでも人気が少ない。
何を飲みたいか、自分の舌と相談しながら掌の中の小銭をじゃらじゃら鳴らして歩いていく。
「あっ」
一時停止。
自動販売機の横に、見慣れた銀髪。英詩子がいた。
「……お、おう」
最初に気付いたのは向こうの方だった。待ち伏せしていたわけでもなさそうで、おそらくこの自動販売機で買ったであろう缶のカフェラテを左手に、駐輪所のフェンスに寄りかかっている。相変わらずラフに着崩した制服。鞄は足元に置いている。
しかし、何となく、今までと、いや、昨日とも雰囲気が違って見えた。
この違和感は何だろう。俺があんなこと言って、何も解決せずに解散したからだろうか……。
猛烈に気まずい。
「……お、おはよう」
かろうじて俺から会話を始めることに成功した。
「こんなところで、偶然だな」
「私の毎朝のルーティーンだよ。ここでカフェラテ飲むの。家だと落ち着かないからね……」
「そうなんだ」
いつ潰えてもおかしくないくらい細い内容の会話が続く。
「なあ、市川。どう?」
「どうって?」
「ちょっと、雰囲気変わったとか、なんかない?」
やはり俺が最初に覚えた違和感は確かに何かが変わった証拠なのだろうか。
目を合わせずに、英がそう尋ねてきた。
対面に立つ俺も同じく目を合わせられない状態ではあったが、おかげでその顔と体をじっと見ることができた。
髪を切ったわけでも、もちろん染め直したわけでもない。
化粧について俺は申し訳ないが細かいことは分からないが、いたっていつもの英詩子だった。
そう、一見いつもの英なのだ。
ただ、つい昨日、俺が「好きだ」と勝手に宣言してしまったことで、その意識に何か悪い変化を起こさせてしまったのではないかという不安感が、この違和感を引き起こした原因なのではないか、とも思った。
「うーん……」
即答できないあたり、俺は相当失礼な男なのだろう。
経験もない高校生という若さを差し置いてもさすがにこれは自分でもドン引きだ。
英は顔を右に、左に交互に向けながら、俺と目を合わせないでいてくれていた。
「客観的に見れば、いつもの学校のヤンキー生徒って感じだけど……」
要するにわからなかっただけである。
「ヤンキーっぽい?」
しかしなぜか嬉々として食いつく英。ここで初めて目がきちんと合う。
「え、うん、まあ。第三者として見たら、見た目はな?」
「見た目は?」
「なんか、危ない遊びしてそうだな、とは思うよ」
俺が彼女の変化に気付かずにいることを、おそらく英は気付いていない。
しかし、話が英の望む方にどうやら進んでいるらしく、俺の選択肢は間違っていないようだった。
その間に俺も正解を手繰り寄せねばならない。
「危ない遊び……ねえ」
「や、そんなことしてないってのは分かってるけど、あくまでも客観的にな? こう、バイクとか乗り回してそうとか、授業をさぼってそうとか、あと、男と遊んでそうとか……」
言い訳をしたいのか何なのか。
まるで昨日、自分の部屋で英に勝手に宣言をしてしまった時のような感情の渦巻きが再び。
「なるほど」
英は持っていた缶を自販機横のゴミ箱にすとんと投げ入れた。そして、足元の鞄を左手で持つ。
駅構内へ移動するのかな、と思ったその時だった。
制服の胸ぐらを急に掴まれた。
掴んだのは紛れもない、目の前にいる英詩子。
ぐいっと引き寄せられ、少し前かがみになる。
何か怒らせるようなことを言ったか、と考えたが、思い当たる節がありすぎて当てにならなかった。
あの日、初めて映画館で英を見つけてしまって、逃げるようにエレベーター前に行って、ばっとその腕を掴まれたその時に覚えた恐怖と同じような感情。
殴られる? 蹴られる? 咄嗟に目を閉じた。
次の瞬間、全身に走ったのは痛みでも、苦しみでもなかった。
甘いカフェオレ。
ハッとした。そして目を開けてしまったことを後悔した。
握りしめていた小銭が掌からこぼれて、アスファルトにぶつかり音を立てる。
胸ぐらを掴まれたまま、俺の顔はグッと英の顔の近くへと引き寄せられていて、どのくらい近くまでかというと、かろうじて固く閉じられた彼女の瞼を確認できるくらい。それ以外は近すぎてほとんど焦点が合わない。
感じたものは、そのカフェオレの甘さと、お互いの唇が、重なり合っているということ。
しばらくして。
どのくらいこの状態でいたのかわからないくらい、時空が歪んだような感覚だったけれども、きっと十秒あるかないかくらいだと思う。
英は瞼を閉じたまま唇を離し、胸ぐらを解放し、そして俯きながら一歩下がった。
その瞬間俺は体から汗が噴き出るのがわかった。
訳が分からなくなって、あり得ないくらい目が泳いだ。
そんな泳ぐ俺の目は、彼女の髪の隙間から覗く、違和感の正体を捉えていた。
彼女の耳には、赤くて丸いピアスがついていた。
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