第三章

第三十五幕 二学期やぶれかぶれ

 夢であってくれ、とこんなに願った事はない。

 場の雰囲気に完全に飲まれて、自分でもどういう思考回路の繋ぎ方をしていたのか思い出せないほどだった。


 そのまま思いの丈を綴ればまだよかったものの、結局、ただ「好きだ」と伝えた途端に我を取り戻したかのような思いになって、その次のセリフが喉から出てこなかった。

 告白でも何でもない、ただの勝手な宣言の後、英は少し顔を赤くしたかと思うと、以降ひと言も発することはなかった。

 当然だ、俺はそれに付随する問いかけを何もしていないのだから。

 「付き合ってください」とか「どこが好きです」なんてことさえを言わず、ただただ気持ちが悪いくらいの宣言をしたまでである。


 両者俯いたまま、数分。

 思い出したかのように英は手元のシャーペンを走らせ、黙々と本来の目的である宿題の丸写しを進めた。

 俺もそこから何も言えず、ただ同じく手元の宿題をこなしていた。


 結局、そのまま夕方六時が近付いた頃、最低限の丸写しを完了させた英が「じゃあ、そろそろ……」と小さく呟き、俺はそれに「あ、うん」と今世紀最大の語彙力と気力のない返事をしてしまった。


 そうして英が帰ったあと、玄関先までしか見送れず、俺は後悔と反省の念に押し潰されていた。


 二人分のグラスを片付けて、広げた宿題をまとめて、また一人になった部屋を見回す。映画のチラシやポスターがこちらを見ている。ポスターに載った俳優の表情は、「何やってるんだお前」と言わんばかり。



 もう一度言う。夢であってくれ、とこんなに願った事はない。


 しかし、晩ご飯を一人で食べて、シャワーを浴びてから、その部屋に戻ると英が持ってきたお菓子の箱がその現実性を強く俺に訴えてくる。


 穣が帰ってきてからもそれは変わらず。


「お兄ちゃん、このお菓子なに? 食べていいの?」


 と、穣用にとっておいたそのお菓子の袋を手に取って訊ねてくる彼女に、「友達からもらったから食いな」と誤魔化しながら答えるのであった。



 夜寝たらいよいよ本当に夢だった! なんて事ないかな、とベッドに入ったけれども、夢どころか、一睡もすることができなかった。



 翌朝。始業式の日の朝。



「あれ、兄ちゃん、今日はデイゲームだっけ?」


 朝ご飯の支度をしながら穣がこう茶化してくる。


「あれ、なんかデジャヴじゃん。兄ちゃんタイムリープしてね?」


 朝から陽気な穣に対して、不機嫌そうに「そんなわけないだろ」と答えることしかできなかった。

 決して不機嫌なわけではないのだけれど、一睡もできなかったことと、どう答えていいか分からなかったことが折り重なってこうなってしまった。

 穣は「寝起きの機嫌いつもより悪っ」と茶化し続けるのみで、逆に助かった。


 残暑厳しい、なんてテレビのリポーターは言ってるけれど、まだまだ本暑だろなんて、そんな言葉があるのか知らないけれど心の中で突っ込みながら、穣が用意してくれた朝ご飯を口に運ぶ。


 喉の通りがよくない。

 精神的な何かが詰まっている気がした。

 や、気がしたのではなく、実際そうなのだろう。


「兄ちゃん、夏バテ?」


 穣が察した様に尋ねる。


「そうかもな」


「一回海に行っただけでそんなに夏疲れる様なことした?」


「まあ、いろいろ、精神的に」


「一人でずっと過ごす方が精神的にきそうだよ、私なら」


「穣はそうだろうな」


 兄妹の日常会話。


「兄ちゃん今日は始業式終わったらまた一人映画?」


「……いや、今日は帰るかな」


「あれ、珍しい。まあさすがにもう見たい映画全部見たのかな」


「そう言うわけでもないけど……」



 そもそも、始業式に学校に行くことさえ気が乗らなかった。

 英と非常に顔を合わせにくいからだ。


 しかし、クラスは違う英。わざわざどちらかの教室に顔を見に行かない限りはよっぽどのことがない限りは顔を合わすことはないはずである。

 相手がヤンキーと揶揄されてる以上、向こうの話題はひょっとすると俺の耳に、目に、入ってくるかもしれないけれど、直接対面しない限りはおそらくきっと、大丈夫。


 そう思いながら、重い箸を進めた。穣はもうとっくに食べ終わっていた。


『それでは星座占いのコーナーです! 今日最も運勢がいいのは山羊座のあなた!』


「兄ちゃんじゃん」


 テレビの占いに反応する穣。

 その通り。俺は山羊座の男だ。


「テレビの占いなんてなんの気休めにもならん」


『自分も、その近しい人もひと回り成長できる日! 思わぬ幸運が訪れるかも? ラッキーカラーは赤! 続いて第二位は……』


「近しい人も成長だって! やった! 私じゃん!」


「おおそうだな」


「反応悪っ。そんなんじゃランキング一位でも幸運逃げてくよ」


 現に幸運を自ら逃すような行動をとってしまったばかりの俺に、穣のそんな忠告は耳に入らなかった。



 ため息をつきながら、食べ終えた朝ご飯の食器を片付けに台所へ。

 食洗機の中にある、二つのグラスが目に入って、改めて、夢じゃないんだなと肩を落とした。



 自分史上最も楽しかった夏休みから、自分史上最も気が乗らない二学期の始まり。

 先に穣がいつも通り元気よく家を飛び出した。


 休みたいとさえ思ったけれど、もう、どうにでもなれ、と俺も玄関の鍵を閉めると同時に駅まで駆け出した。


 そんな感じの朝。

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