第三十二幕 招かざるをえない客
が、俺の夏はまだ終わっていなかった!
その日、俺の目を覚ましたのは眩しい朝日でも、穣の声でもなく、とある人物からのメッセージ受信通知だった。
枕元のスマホを手に取り、薄ら目で見た「英詩子」という画面の表示に俺は飛び起きた。
恐る恐る通知バナーをタップすると、切実なメッセージがそこに表示されていた。
『宿題、写させて』
くすりと笑って、返信する。
「俺もまだ全部は終わってないけど」
『どのくらい残ってる?』
「今日1時間とちょっとやれば終わるレベルかな」
しばらく既読のまま返信が途絶える。
まだ宿題の終わってないやつには用はないということだろうか。少し残念な気持ちを抑えて俺はスマホを右手に握ったまま再び横になろうとした。
しかし、ちょうどその時、スマホの着信音が高らかに鳴り響いた。
変な体勢で力が入ったせいで、腰に変な痛みが走る。
「うっ……。はい、もしもし」
腰をさすりながらベッドから立ち上がり、電話に出る。
『もしもし? あれ、寝起き?』
英からメッセージではなく着信が返ってきた。
「いや、ちょうど起きたところ」
『頼むわ。宿題、写させてくれ』
「いや、まあ、いいけど……。そんなにやばいのか?」
『宿題とかそういうの、全部家に置きっぱなしでいたからさ』
「あー……」
夏休み、せっかく本家に帰省して時間が有り余ってたはずなのに、どうやら英はその一式を放置したままだったらしい。ということは、この一日でその全部を仕留めなければならないということだ。
『まあ、提出が少し先のやつとか、教師がチョロい科目のやつは置いといて、優先度高いやつだけでも写させて! 頼む!』
「いや、別にいいけど、俺も中身適当だぞ? 俺の成績の悪さは知ってるだろ?」
『宿題は合ってるか間違ってるかが問題じゃない。やってるかやってないか、その事実だけが大事なんだ』
「その心意気だと二学期の中間試験も補講受けそうだな」
『うるせえ』
あの日、コインパーキングでのそれ以来に声をかわす俺たち。メッセージのやり取りはしていたが、実際にちゃんと声をこのように聞くとなると、妙な緊張感が漂ってくる。
それでも平静を装って、いつも通り喋る。
電話越しの英の声もいつも通りで安心した。
「写すのはいいけど、俺もまだ少し残ってるからなあ」
『じゃあさ……』
一拍。
『一緒にどっかで宿題やろうよ』
「えっ! あ、いいけど……」
もう一拍。
「図書館とか?」
『図書館……って喋れないじゃん? 映画館ならともかく、図書館の空気はちょっと好きになれなくて……』
「あー。じゃあ学校か? 空き教室使って」
『学校入るには制服着ないとだし、教師とか他の生徒もいるだろうから、色々面倒くさいな』
「じゃあ、どっかカフェ的な?」
『長時間滞在するって大丈夫か?』
「うーん」
と、なると。
選択肢は限られてくる。
俺からその選択肢を提示するのにはかなりの勇気が必要だ。誤解を招かないように、いかに自然に。
『最初はうちに来てもらおうと思ったんだけどさ。今日、あの父親も家にいるから色々厄介だろ? あ、あの日の事も……あるし』
あの日の事。と英の口から発せられた瞬間、彼女も何かを思い出したように声の大きさが尻すぼみしていく。
そして意外にも英はすんなりと、俺が悩んだ選択肢のうちのひとつ、英の自宅を提示してきた。
もう逃げられないぞ。
限られた選択肢のうち、一度行ったことのある英の自宅よりも難易度の高いそれを、俺は遂に口にした。
この流れでは、仕方ない。
「うちは?」
声が返ってこない。
聞こえなかっただろうか。伝わらなかっただろうか。それとも、ちょっと怪しまれているのだろうか。
「もしもし?」
不安で声が震えているのに喋りだしてから気付いた。
『お邪魔……して大丈夫……なのか?』
お互い様だった。
「や、別に、特に何にもないし……」
『……じゃ、じゃあ』
「き、教科書とか見るなら、お、俺の使っていいから」
『や、写すだけ……だから、最低限のものだけ……』
市川新太郎と英詩子の二人史上最もぎこちないやりとりが続く。我ながら気持ちが悪い。
流れとはいえ、家に英を招いてしまうことになるとは。
「あ、え、駅まで迎えに行こうか」
『や、外暑いだろうし、場所だけ教えてくれれば……』
ふと部屋を見回す。
さすがに掃除が必要だった。
汚部屋というわけではないけれども、昨日食べたお菓子の空き袋だったり、空のペットボトルが放置されている。
それに寝起きだ。着替えたりいろいろ、時間が欲しい。
もしここで英に「迎えに来て」と言われてたら、一体何分待ってもらうことになるやら。
英には申し訳ないが、こちらへ来てもらってる間に部屋の掃除と自分の身支度を済ませておこう。
「じゃあ後で住所をメッセージで送るから」
『わかった。助かる。ありがとう』
じゃ、また後で。
そうお互いに言って電話を切った。
スマホを握ったまま、部屋をぐるりと何度も見回す。
変なもの、置いてないよな?
汚いもの、ないよな?
掃除機、一応かけるか。
両親は相変わらず仕事だけれど、そういえば穣は?
部屋の扉を開けて妹の名を呼んだ。返事がなければ人気もない。
「塾?」とだけ穣にメッセージを送ると、瞬時に既読がついて「そー。あ、でもその後に友達とカラオケ行ってから帰るから、7時8時くらいに帰るよ」と返ってきた。
ということは。
この家、誰もいない?
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