第二十五幕 グランド・ハナブサ・ホテル

「新太郎さん」


 律華の表情が徐々に和らいでいった。てっきり「無関係な人は引っ込んでてください!」なんて怒鳴られるかと思ったけれども、どうやらそういうわけではなさそうだ。


「本当に姉さまのご学友なんですね……」


「ああ」


「てっきりヤンキーの姉さまのパシリか何かの方かと思いましたけど、どうやらそうではないようですね」


「人を見た目で判断するなよ」


「すみません、ジョークです」


 くすりと笑うその表情は言葉遣いとは裏腹に見た目相応の無垢な笑顔だった。


「新太郎さんが姉さんを変えてくれると?」


 少々小っ恥ずかしいけれども、力強く頷いてみせた。後ろで英がどんな表情をしているかなんて確認できない。


「では、折り入って頼みがあります」


「頼み?」


 初対面なのに、わざわざ何を。

 と俺が言いかけたところで、律華は俺の左手をその小さな両手で握った。握手かと思った矢先、そのままぐいっと俺を引っ張っていく。


「ちょ、え、なに?」


「おいクソガキ。市川に何するんだ」


 慌てる俺たちに、律華は手を引きながらこう答える。


「姉さまも来てください」


「どこにだよ」


「おじ様を説得するチャンスです」


 おじ様。つまり、英の父親のことだった。



◇◇◇



 海パンにラッシュガードにビーチサンダル。見事な海水浴場コーデのまま俺はなんと律華が迎えに寄越していた黒い車へと放り込まれた。


「え? 俺何されるの?」


「クソガキ、どういう真似だ」


 三列シートの最後部座席にそんな俺と英は乗り込んだ。真ん中に律華。運転しているのは真夏に似合わぬ黒スーツをビシッと着こなすいかにもな男性だった。

 突然の出来事に呆気にとられて、抵抗もほどほどにすんなりと乗り込んでしまったけれども、一体。


「おじ様のところに行きます」


「親父のとこ? なんで市川も連れていくんだよ」


「おじ様に、姉さまが今、本当に何がしたいかを伝えるんです。将来とか、グループとか気にせず、ただ普通に過ごしたいんでしょう」


 律華はどうやら最初から英の理解者なのだった。


「いま、新太郎さんという人がいるという事実、普通に過ごせる機会を彼は姉さまに与えてくれようとしています。こうなればおじ様も納得せざるを得ないはずです。なんてったって、もう新太郎さんという他人を巻き込んじゃってますから。グループのイメージを気にするなら逆にもう抵抗できないでしょう」


 後部座席を振り返りながらニヤリと笑う律華。威風堂々とした先程までの態度はもうカケラも見られない、悪戯好きな幼女のようなその表情。彼女もまたこちらが素顔で、英と同様、ハナブサグループのプレッシャーと闘っていたに違いない。

 だから、こうして英を気にかけているのだろう。

 幼女のくせに、なかなかやるな。


 なんて感心している場合じゃあない。大問題がひとつある。


「待て、俺、この格好だぞ?」


 すると律華は大きなボストンバッグを俺に投げつけてきた。それは俺の腹部を襲う。


「その中に服とズボンが入ってます。隆也兄さまのお古ですが」


「隆也兄さま……?」


「詩子姉さまの兄です」


「ああ」


 いつの日か英から聞いた、英にあの例のDVDを貸して見せた張本人の「歳の離れた兄」のことだった。

 そういえばそのお兄さんも今から行くところにいるのだろうか。


 バッグの中を開けると、チノパンに襟付きの半袖シャツというなんの変哲もない無難なコーデが入っていた。

 お古と言えど、サイズは合うのだろうか……?


「体型は市川とそんな変わらないから、サイズは気にすんな……」


 強引に連れ戻されようとしている英は諦めた表情で窓の外の景色を眺めながらそう言った。

 けれどもサイズよりも問題がひとつ。


「ここで着替えるの……?」


「目、逸らしとくから」


「私も目は閉じとくので安心してお着替えください。幸いにも水着は濡れてないようなので、上からズボンをはけば問題ないかと」


 そうして俺はシートベルトをしながら器用に英の兄のお古を身にまとった。



 しまった。あいつらに何て説明しよう。とちょうど頭の中に水月たちの顔を浮かべたその時、ラッシュガードのポケットに入れていたスマホが鳴った。

 着信先は水月。


『ちょっと、新太郎?』


「悪い、実は、その、えーっと」


『……詩子いたでしょ』


「え、なんで」


『まあ、えっと、新太郎がどっか行ったなと思ってちょっと後をつけてたら、その』


「見てたのか。なら何となく状況はわかるか?」


『わかんないわよ! 急にちっちゃい女の子と手繋いで三人でどっか行くし!』


「いや、それは、その」


 少し不機嫌そうな水月に、この事情をどう説明すればいいのだろうかと悩んでいると、電話越しにひとつため息が聞こえたあと、口調を整えて水月がこう言った。


『時介と穣ちゃんにはうまく言っとくから』


「え……」


『なんか分かんないけど、詩子のために、何かするんでしょ?』


「え、なんで分かるの……」


『詩子が帰省してて、そんで実家とうまくいってない話も知ってるし、ハナブサグループのことも知ってるからどうせそんなことじゃないかなって、単純な推理よ』


「まあ最近いやに仲良かったもんな、二人」


『それに、慎太郎のやりそうな事くらい幼馴染だから何となく想像つくのよ』


「参ったな」


 頼もしいというか、なんというか。持つべきものはやはり友ということか。

 こればかりは水月の理解力の高さに感謝だ。


「悪い、本当にありがとう。あとたこ焼きのお金は後でちゃんと払うから、時介と穣と分けて食べてくれ」


『ふたパック買っちゃったから、それ全部奢りね』


「わかったよ」


『よし、じゃあ許す。それじゃあね!』


 食い気味で通話が切られた。

 時介と穣には俺は体調を崩して救護室にいるとでも言ってるのだろう。どちらにしても三人がホテルに戻ろうとするまでには戻らなければ変に思われてしまう。いや、そこも水月なら何とかしてくれるだろうか。


「水月から?」


 英がそう尋ねてくる。いつのまにか英も水月のことを下の名前で呼ぶようになっていたみたいだ。


「ああ。さすが幼馴染みだ。物わかりが良くて助かるよ」


「そりゃよかった」




 それ以上、車内では誰も口を開かなかった。

 目的地がどこなのかは分からなかったが、だんだんと確実に近付いてるのだろうという気持ちが、俺にどんどんとプレッシャーを与えてくる。


 数十分走って、車は豪華なホテルの駐車場に入って行った。

 テレビで見たこともある高級ホテルだった。海水浴場からも車やバスでアクセスの良い立地だなこのホテル。なんて考えていると、ハッとハナブサグループは観光事業に強い企業だったということを思い出した。


「本家があるところはまだここから離れてるんだけれど、新太郎さんに会ってもらいたい人はここに泊まってるの」


 英のお父さんのことだ。


「私も一応この夏休みはここにいるんだけどな。一応親もそこは気を遣ってか、一人の部屋は用意してくれて」


「お、おう。そうか……」


 画面上でしか見たことない豪華絢爛なホテルの外観装飾全てに圧倒されてしまった。

 着慣れない服で俺は車から降りる。

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