第二十三幕 新太郎・ヘルプ・ザ・ガール

「英!」


 防波堤の上、その人影を英詩子だと断定するには客観的根拠がまだまだ足りないくらい離れているのにもかかわらず、俺は彼女の名を叫んでいた。

 ほんの少し、その人影が俺の声に反応した気がする。


 ラッシュガードの裾を風になびかせながら、駆け足で近付いた。ビーチサンダルがコンクリートと擦れていびつな足音となる。



 夢で見た格好と同じ彼女は紛れもなく、英その本人だった。そうして夢と同じように彼女の後方数メートルのところで足を止めた。

 何もかもが夢と同じというわけでもなく、ゆっくりとこちらへ振り向く彼女の表情に涙は流れていなかった。いや。正確には「流れていた」と言うべきだろうか。赤くはれたその目元は確かについ最近まで涙を流していたことを表していた。



「……市川」


 驚くことに、英は一切驚いた様子を見せず、さらに泣いた形跡のしっかりと残っている顔を恥ずかしがることなく、俺の方へ目を向けた。


「英、本家のところに帰ってたんじゃ」


「その本家がこの隣の町にあるんだよ」


「まじで?」


「ま、息苦しくて結局ひとりで飛び出して、気晴らしに海でも眺めようと思ってさ」


「気晴らしの海にしてはずいぶん賑やかなところを選んだんだな。ここ、海水浴場だぞ」


「……って」


「え?」


「いや、別に。誰かさんが海に行くって聞いてたから、もしかしてって、ちょっとだけ、本当にちょっと思っただけだから」


「ああ、水月に誘われたんだっけな」


「うちらの住んでるあたりから高校生だけで行ける海ってどうせここしかないだろうなって。まあ、たまたまだよ。本家がこの近くってこと、誰も知らないだろうし」


 会話が途切れると英は再び海へと向き返る。

 夢で一度見た彼女の服装であったが、やはりこう現実に目にするとその質感、色合い、そして普段の英のイメージとのギャップから、まじまじと観察してしまう。


 彼女は背中でそんな俺の視線を感じたのか、海を見つめたままこう言った。


「似合ってないかよ」


「いや……」


 すごく似合ってるとはなかなか口に出せなかった。照れだ。


「そういう市川は海に来たのに全然それらしいことしてなさそうだな」


「いや、そんなことは……」


「水着、まったく濡れてないぞ」


「げ……」


「どうせ海の家で冷たい飲み物飲んで、砂浜で寝てただけだろ」


「エスパーかよ」


 少し肩を落として英がこう続ける。


「でも、楽しそうだな」


「まあ、こう久々に水月と時介と、ああ、あと妹も、集まるってこと自体がな」


「そっか……」


 答えてすぐ自分の発言を後悔した。いろんなしがらみに囚われている英に対して配慮に欠けた発言だったかもしれない、と。

 けれども彼女から嫉妬や羨望、またはそれに準ずる感情の一切は感じ取れず、しいて言うならば、無関心がそこにあった。


 英は視線を海から砂浜の方へと向けた。


「こっから見る砂浜って、なんか映画見てるみたいでさ」


「……?」


「映画ってフィクションだろ。非日常だろ。現実の私には考えられない人間模様が描かれているじゃん。そういう意味でここも同じ」


「ノンフィクションもあるけどな、映画」


「実際問題少しでも編集が入って、カットがかかって、ていうかそもそも人の手で撮られたカメラの映像ってどこまでがノンフィクションなんだって話だけどね。まあそれはいいけどさ」


 ひと呼吸。


「なあ、市川」


「はい」


 無意識にかしこまった返事をしてしまう。


「私も、この映画に出たいよ……」


 英は少し震えた弱った声でそう呟いた。

 一緒に映画を見たときに号泣したそれとも違う、悔しそうなそれは、賑々しい砂浜の音や波の音に打ち消されそうで、しかしそれでもしっかりと俺の耳を刺してきた。


 じゃあ一緒に海で遊ぼうよ、なんて気軽に答えられなかった。


 この映画に出たい。現実を楽しみたいというその言葉は、決して今この瞬間だけではなく、これからの学校生活ひいては英の家族関係もすべてを包括していた。

 そんな軽い一言では解決できない。


「困ったことがあったら相談しろって言ったろ?」


 弱った背中に声をかける。


「夏休みが終わったら、また映画を見に行こう」


 ピクリと反応する英。


「いや、映画だけじゃない。遊びに行こう。カラオケも、ボウリングも。水月も、高島も、ついでに時介も誘おう。今度俺の妹も紹介してやる。学園祭も体育祭も、修学旅行は俺はクラスが違うけど、高島と同じ班になって回ろう。高島なら絶対迎え入れてくれる。あと高島と映画は行ったか? 楽しみにしてるはずだぞあの生徒会長」


「ぼっちの市川が?」


「悪いかよ。手始めに今日は俺たちとここではしゃごう。そうだな今水月がたこ焼き買ってきてるはずだから、一緒に食べよう。昼飯食べたか?」


 英はゆっくりと向き返りこう答えた。


「お前は私の演出家かよ」


 その表情は少しだけ緩んでいた。

 最初にみた目を腫らした彼女ではなく、いつもの英が戻りつつあって、俺は安心した。


「いつまでも他人の映画見て泣いてばっかじゃしんどいだろ」


「そうだ……」


 英は何かを言いかけたけれども、突然その動きがぴたりと止まった。

 視線は海でも砂浜でも俺でもないところで止まっている。俺は追いかけるようにしてその視線の先に目をやった。


 俺の後方、ずっと奥から一人の少女が歩いて近付いていた。



「誰?」


 水月か時介か穣か、誰かに見つかったか? と思ったけれども答えはすべて違った。


 穣より年下だろうか、幼い外見のその少女は、海とはまったく合わないフリフリの衣装に、薄桃色の日傘、一目見てお嬢様と分かるその風貌。

 ハナブサグループに関係する、もしくは英の知り合いであるということは想像に容易かった。

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