第二十二幕 幼馴染を待ちわびて
頬を叩かれたような痛みではなく、正確には頬を叩かれた痛みだった。
砂浜に敷かれたレジャーシートで横になって眠りについていた俺を起こしたのは水月の張り手だ。
「いってぇ……」
「せっかく海に来てるのに、まだ瓶ラムネしか味わってないじゃん。買った水着に一滴も海水ついてないし」
寝起きの目に鋭い夏の日差しは毒だ。目を擦りながら上体を起こして、隣に屈む水月に視線を向けたが、日差しに刺激されて弱った目を保養するかのような体がそこにあった。
「これでも俺は堪能してるんだよ。俺なりの夏を」
目のやりどころに困りながら答える。薄い桃色の可愛らしい水着なのに、水月は随分と大人っぽく見える。
「穣ちゃんも受験のストレス忘れて楽しんでくれてるし、まあ時介は言わずもがな。いまは二人ともお腹がすいたって向こうの海の家で焼きそば食べてるよ」
「そういや電車で軽くお菓子食っただけだもんな。そりゃ腹も減るな」
水月の方は見れないので、再び水平線を遠く眺める。彼女は俺の顔に視線を向けているが、すまない、その格好の水月に面と向かって答えることは今はできない。
「……来てくれてありがとう」
思わぬ感謝の言葉に動揺が走る。
「いや、自分で言うのもあれだけど、なんにもしてないぞ?」
「まあ、そうなんだけど。なかなかみんなで集まる機会ってなかったじゃん? 私は来年進路のことがあるし、時介もサッカーに力入れなきゃ出し、穣ちゃんは今年受験、新太郎は一人で映画だし」
「俺だけ理由が将来関係ないんだけど」
「実際映画にはまってからほとんど一緒に遊んでくれなくなったじゃん」
頬を膨らます水月は続ける。
「妙に誘いにくくてねえ。でも最近、ちょっと明るくなってきてるじゃん、新太郎。だから今なら多少強引に誘えば来てくれるかなって」
「多少……どころじゃなかったけどな」
水月の言い分に自覚はないけれども、彼女はその答えに至った理由をつらつらと述べていく。
「……詩子でしょ」
「は?」
「いろいろと仲いいらしいじゃん」
「いや、映画見たくらいだよ……」
「本当に?」
「本当だって」
「……」
しばし沈黙。
「実は詩子にも夏にでかけよって誘ってみたんだけど、長期間帰省するらしくて断られたんだ」
「らしいね」
「……知ってたってことは新太郎も誘ったんだ?」
「あ、いや……」
「新太郎分かりやすいなあ」
再び沈黙。
ここまで言葉を選ぶような水月は珍しかった。違和感を覚えながらも俺から話を切り出した。
「英とよく仲良くやってるよな」
「うん。本当にいい子。あの言動さえなければヤンキーなんて言われないのになあ」
「そもそもなんで英と急に話すようになったんだ?」
それはずっと抱いていた疑問だ。
俺は偶然とはいえ映画館で偶然出会ったことと、映画好きだということでまだ英と話す理由があるのだけれど、正直このふたりには最寄り駅以外接点などないだろう。
「それは新太郎と仲いいから、かな」
「それだけ……?」
「……うん!」
含みは感じられたけれど、それに関しては納得もできた。
学校一の不良だと思われていた英が、幼馴染と仲良くなった。そこで元々コミュ力の高い水月だ、それなら仲良くなれるはずと思ってもおかしくはないだろうな。
三度沈黙。
「ねえ、私たちも軽く何か食べて、そのあとは新太郎も海に入ろうよ。一緒にさ。せっかくだし」
「まあ、そうだな。せっかく来たもんな」
「私が買ってきてあげる。焼きそばとか、たこ焼きとかいろいろあったよ!」
「さっきラムネ買った時に横に置いてたたこ焼き美味しそうだったなあ」
「じゃあたこ焼き買ってくる! 私もたこ焼きにしよっと。行ってくるね!」
すっと立ち上がって水月は海の上の方へと駆け出して行った。ようやく目の自由が効くようになって俺は存分にあたりを見回した。
眠りにつく前よりも海水浴客の数はぐんと増えていた。家族連れに子供連れ、若い男女の集団、カップル、どうみてもアウェーだった。
夢の中の誰もいない静かな海が恋しくなる。
ふと、視線を海の家とは逆方向にある防波堤へ向けた。
夢では、あそこに英はいたんだっけ。
「え?」
思わず声が出た。
夏の日差しに目がやられたのだろうか。
まばたきを繰り返し、目を擦り、もう一度そこに目を向ける。
防波堤の先に立つ人影。
セミロングの銀髪。
ほかの海水浴客とは違って水着でもなく、ラッシュガードでもない、目を疑ったのは、デニムのショートパンツと白いオーバーシャツ。
……正夢か?
あまりの驚きで、先ほどまで重かった腰がすんなりと浮き上がった。
意識よりも先に体が防波堤の方へと向かっていた。
「英……だよな?」
目を細めながら俺は歩みを進めた。
その後方でたこ焼きを二パック抱えた水月が戻ってこようとしていたのには、気付かなかった。
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