第十一幕 血を吸うシネマ

 どうやら穣は違和感を覚えたらしい。

 休日、昼前、いつも通り俺はだらだらと自室を出て軽く朝ごはんとも昼ご飯ともとれるものを食べていただけなのだけれど、その様子を穣は居間のソファで横になりながら訝し気に見つめてこう言った。


「兄ちゃん、デート?」


 正確にはそうではないのだけれど、妙に鋭いこの妹。


「いや、違うけど」


 目を合わせずに答えると、ふーん、とさらに表情を険しくさせた。

 穣も今日は丸っと一日お休みなのか、いつものようにサイドテールにはせず、長い髪の毛をだらっと下ろしていた。へそがちらりと見えそうなくらいだらしのない部屋着である。


「時介くんと遊びに行くにしては服装が整いすぎてるし、水月ちゃんと遊びに行くにしてはいつもと違いすぎる。余所行きの恰好だよ兄ちゃん」


「お、おまえ俺の服装を細かく分析するな。誰でもいいだろ、時介でも水月でもない同級生と遊びに行くんだよ」


「兄ちゃん……友達できたの……」


「そんな驚愕するな、逆に惨めになるだろ」


 事実、穣の観察眼は間違っていなかった。なぜか俺は前日前夜から少ない衣装ケースの中身と天気予報の気温をにらめっこしながら、選びに選び抜かれた服。まあ何の変哲もない無地の半袖シャツなのだけれど、慣れない仲の人とどこかへ出かけるという人生初のイベントは俺にとって実に悩ましいものだった。



◇◇◇



 さて俺と英は駅を挟んで真逆とは言えど、同じ駅を最寄りとするのだから、前日の待ち合わせ日時を決めるためのメッセージのやり取りで俺は当然「じゃあ改札前で」と提案したのだけれど、それは彼女に即時否決されてしまった。

 理由は聞いていなかったけれど、俺自身もよく考えてみればうっかり駅前で休日に私服で待ち合わせているところなんて見られたら、時介以外だれも事情を知らないのだから、あらぬ噂に油を注ぐことになるだろう。

 そうして俺は英がその直後に提案した映画館での現地集合に同意した。


 いつもの歩きなれた道、乗りなれた電車がどこか異空間に思えて、全く知らないところにこれから行くような緊張感とも高揚感ともとれるざわめきを抱えながら、俺はあの日英に腕を掴まれた映画館のホワイエに辿り着いた。

 ここ数日で俺は本当にいろいろな顔のあの不良少女・英を見てきてしまったなあ、なんて思い出しながら映画館のグッズストア内をうろうろしながら彼女の到着を待っていた。そしてそこから間もなく、俺はまた新しい顔の英を見ることになってしまった。


「は、英か……?」


「どう見てもそうだろ」


 確かにどう見ても英だったのだけれど、その顔つきは女性の化粧に明るくない俺でも分かるほど、普段と違う明るい晴れやかなものであった。そしてヘアスタイルも少しだけ前髪を切って、アイロンで毛先を巻いていた。俺と同じ、余所行きの姿だった。


「んだよ、なんか変かよ」


「いや、なんか、想像と違ってて」


「や、時間があったから、先にちょっと美容院に行ってたというか、そう、美容院も長らくご無沙汰だったから、たまたま、今日さっき行っただけで」


 なるほどそれで現地集合にしたのか。彼女は目を逸らせながらこう告げた。


「あんまり人と出かけることねえから、その、変だったら教えてくれよな……」


「いや、俺も、その人と出かけることあんま無いから」


 正直に答えると、英は俺とようやく目を合わせて、ふっと笑って答えた。


「そうだったな。市川に聞いたのが間違いだったわ」



 なんてやり取りをしながら、俺たちは上映スケジュールが掲げられているイーゼルの前に並んで立っていた。

 どの作品を見るかというメインプログラムを一切決めずにここまで来てしまっていたのだ。

 いつも俺がぼっち映画をするときのように、何となく足を運んで、その時間でちょうど見れる作品を見るという癖がここに出てしまっていて、それは英も同様だったらしい。


「見たい作品は公開してすぐこれば、ここくらい大きなシネコンなら間違いなく時間も合って見れるし、偶然時間が合って見た興味が湧かなかった作品を見て実は面白かった時の反動もまた一興なんだよな」


「英は好きなジャンルとかあるのか? やっぱ洋画が多いとか?」


「映画好きイコール洋画好きって風潮なんなんだろうな、まあ洋画も好きだし分母が大きいから見てる数も多いんだけど、私は関係なく邦画だって好きだし、アイドル系俳優ごり押しの映画だって見るし、オタク向けのアニメ作品だって抵抗ない」


「何でも見るんだな」


「よく『あの作品はここがだめだから見ない』とか『ここが面白くないから見ない』とか言われる作品あるけど、私はそんな減点方式で映画を見たくないんだよ。誰かが面白いかも、お客さんを呼べるかもって思ったからその作品が存在するわけであって、それが全く面白くないわけなんてないじゃん」


「まあ、それが監督なのか配給会社なのかはともかく、売れる、ハマると思ったから企画されてるんだもんな」


「一分一秒、一言一句、どこにその面白ポイントが潜んでるかわからない。それが仮に自分の理解には及ばないものだったとしても、最後まで見て、どこかにある自分なりのヒットポイントを見つけ出すこれが早送りや巻き戻しのできない劇場鑑賞の魅力だと思うんだよ」


「すげえ分かる」


「だから、エンドロールの途中で帰るなんてことは許さんからな」


「わかってるって、睨むなよ……」


 初めて出会った日のやり取りを思い出す。


「市川は逆に、なにかこだわってる事あるのか?」


「うーん、おおむねその意見に同調できる。強いて言うなら俺は映画館が好きなんだ」


「環境自体がってこと?」


「そう、ここにいる俺たちはさっきまでとは変わらない日常を送っていた人間だろ? でもこの高い天井、うす暗い照明、いたるところにあらゆる宣伝物、ポップコーンの匂い、そんな日常の存在を取り囲むのは非日常の世界なんだ。そうして俺が俺じゃないみたいな、体中の血が吸い取られて、何となくぼんやりとするような感覚になる。それからあの入場ゲート、そこをくぐれば、それまでの音や空気がすうっと一気にどこかへ吸い込まれて消えて、その何かが始まるような雰囲気が、俺を唯一癒してくれると思ってる」


「早口になってるぞ。でも、わかる」


 一拍置いて、入場ゲートの方を見ながら英は続けた。


「映画館で映画を見ている間は、自分じゃない自分でいられるから……」



 それはいつぞやの、家族の話を少しした時と同じ、寂し気な表情であった。

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