第一章
第一幕 ボーイ・ミーツ・ヤンキー
補足。
俺が何も外見だけで人を判断して隣で号泣している少女のことを不良呼ばわりしたわけではない。
場内各所から漏れ聞こえるすすり泣き声がやけに近くでよく聞こえるなあと、ふと右隣に目を移したら、真っ暗な場内、スクリーンから放たれる光に映し出されたその声の主の姿は間違いなく俺と同じ高校のブレザーで、多少着崩されているが、もうそこに通って二年目になる俺が見間違うはずがない。
そして無意識に当人の顔に目をやった瞬間、俺は背筋が凍り付いた。
彼女の名は、英 詩子。
クラスは違うが俺と同じ志都美台高校の二年だ。
着崩した制服、長い睫毛、肩までくらいのセミロングな銀髪のその英詩子は、学校随一の不良少女として名高く、クラスの隙っこで数少ない友人とひっそり陰に暮らす俺でも、接点こそなくともその悪評はよく耳に入ってくるくらいである。
と、ここまでの思考時間一秒足らず。
咄嗟に俺は右に向けた視線を正面に戻した。そこから金縛りにあったかの如く、すこしも顔や体を右側に傾けることができなかった。
——英詩子が泣いている。しかも映画館で。
俺は見てはいけないものを見てしまったのだろうか。
不幸にも俺も同じく制服を着ている。学校終わりに映画館へ直行したのだから。
——バレたらやばい。
何見てんだよと、脅され、金品を要求されたらどうしよう。そんな不安が過る。
英詩子についての噂はその真偽はともかく陰のものである俺からすれば非常に恐ろしく、煙草を吸っているやカツアゲをしてる、知らないおじさんをひっかけて夜遊びをしている、暴力事件を起こしたことがある、教師を退職に追いやったことがある、などなど。
俺はこの被害者の中に名前を連ねたくなかった。
以降、俺の意識は激烈に自身の右半身に向かい、全くと言っていいほど映画の内容が頭に入ってこなかった。
映画館人生においてはじめての恐怖経験だ。
考えていることはただひとつ、いちはやくこの場から退散するぞということ。
今日は時間割的に早く来れたから二本観ちゃおっかななんて考えていたのだけれど、否。
はやくスクリーンを抜け出し、コリドーを早歩きで抜け、エレベーターに乗り、ショッピングビルの八階にあるこのシネコンから抜け出すのだ。
パンフレット? グッズ?
この作品はまだ公開初週、また後日買いにこればいい。
英詩子が俺に気付いて攻撃を仕掛けてくる前に……
いや、もう気付かれていたら……?
それはまずい、この場で逃げ切れても明日校舎裏にお呼び出しだ。
どうする、明日は急に頭痛がしてという訳の分からない言い訳を言い連ねて逃れることができるだろうか。彼女がとても執念深い人間だったらどうしよう。欠席した俺の自宅までカチコミに来たらどうしよう。両親は共働きで帰りは深夜になる、俺の身を守れるのは俺と飼い猫の「むすび」だけだ。
冷や汗が右半身に重きを置いて流れている。
そこでハッと気づいた。
スクリーンではいつのまにか作品がエンディングを迎えていた。
そして荘厳なバックグラウンドミュージックと共に流れ出すスタッフロール。
——ここだ!
映画館を愛する俺の流儀として、スタッフロール途中での退場は言語道断だった。
他者がそれをしてしまうのは特に咎めはしないが、自分が途中退出してしまうのは自分を許せない。
しかし、背に腹は代えられない。
前方でほんの数名が席を立つのを確認した。
——散っ!!
露骨に右側に背を向け、身をかがめながらスクリーン内の階段を小走りで降り、そうして片側だけ開かれている重厚な扉からスクリーンを抜けた。
「ありがとうございましたー」
アルバイトの従業員の声が俺を緊張から解き放つ。
本当ならば、映画鑑賞後スクリーンを出たこの感覚、自分だけタイムスリップしたような時間の不安定なこの感覚がたまらなく快感なのだけれど、今はこれ以上に無い安心感が身を包む。
第一関門突破。あとは明日以降の学校での立ち回りを考えねばならなかった。
ところで、緊張から解放された俺を次に襲ったのは尿意。
ホワイエに出た俺は、入場ゲートすぐ右側にあったお手洗いへ駆け込んだ。
さて、ハンカチで手をふきながら完全にこの場から逃げ切るため、エレベーターの方へと向かった。途中、グッズ売り場に目をやって、英詩子が追ってくる様子もないので、パンフレットくらい買えるかも、と考えたけれど、気のゆるみがあらぬ事態を起こしかねない、気を引き締めなおしてエレベーターが下のフロアからここ八階に到着するのを待つ。
四階……五……六……七……
ピンポン、とエレベーター到着の電子音と共に扉が開く、乗客はおらず、俺の前に並んでいた数名が中へと足を進めた。
流れるままに俺も足を前に出した瞬間だった。
何かに右腕を掴まれた。
「おい」
さっき引いた冷や汗が一気に再度押し寄せてきた。
恐る恐る、時計回りに顔を後ろに向けていく。
着崩されたブレザー、銀髪、そして露骨にこちらを睨むその表情。表情の教科書があれば、不機嫌の項目はこの顔だろう。しかしその瞳は先ほど号泣したせいか、少し潤んでいた。
「あ……あぁ……ぐ、ぐうぜんですねえ……」
同級生なのに無意識に敬語が出てしまう。
俺の右腕を掴んだまま、英詩子は何かを言おうと口を開けた。
しかし、それより先に俺は言い訳を連発していた。
「あ、あの、ここでお見かけしたことは、誰にもいませんのでっ。てか言う友達もあんまりいないし……なんつって……。あの、その、本当に、なので、お金とかはその、ご遠慮いただけますと幸いで……」
次の瞬間、英詩子が俺に飛ばしつけた台詞は、予想だにしないものだった。
「スタッフロールの途中で帰んなよ!」
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