第58話 ドクター

「私がクインリー。よろしくね。早速だけど仕事の件で依頼したことがあるの。まず私が舞台に上がっている間、最低でも誰か一人はこの部屋の前にいて誰にも中に入れないで。また帰る服がなくなるのはたまらないもの」


 四人を代表してツアムが頷いた。


「承知しました」


「それと私の側にいてもらうのは、家からここまで通う間とこの劇場内だけ。家には信頼しているメイドたちしかいないし、自宅の中まで守ってもらわなくて結構よ」


「契約通りです。問題ありません」


「よかった。じゃあ短い間だけど…」


 そのとき、ドアのノックされた音が部屋の中に響いた。「昼食が運ばれてきたわ」とクインリーが立ち上がると、扉が開いて一人の男が入ってくる。


「検診の時間だよ、クイン」


 白いスーツを着た背の高い男だった。歳はかなり若く、三十には達していないだろう。黒髪に金のメッシュが入っていて、オールバックにしている。クインリーの表情に少し陰が現れた。


「ドクター…検診は夕方の一度きりで言ったはずよ。ほら、見ての通り健康体だし」


「受け入れられない、と私も答えたはずだよ。本番まで体調に万一のことがあっては大変だ。さあ」


 ドクターと呼ばれた男は少しも遠慮することなく部屋の中へ入ってくる。バエントが長椅子から立ち上がった。


「私は失礼するとしよう。彼女らとの契約で何か思うところがあったら支配人室まで来なさい」


 クインリーにそう告げ、部屋から出ていく。ツアムもそれにならって立ち上がった。


「では、私たちも部屋の外で待機しています」


「それには及ばないわ。検診といってもすぐに済むんだし、昼食が運ばれてくるまで私の話し相手になってちょうだい」


 そしてツアムに座り直すようクインリーが目配せする。クインリーの座っている椅子まで来たドクターがツアムたちを眺めた。


「ずいぶん若い護衛たちだね。頼りになるのかい?」


 穏やかに努めた口調ながらも、その眼には明らか嘲笑の色があった。クインリーがドクターに向き直る。


「命を狙われてる要人じゃあるまいし、筋骨隆々の大獣人が来ても私が困るだけよ。この人はドクター・ホーパー。劇団お抱えの医者で、見ての通り半獣人はんじゅうじん


 クインリーから紹介されたホーパーが礼儀正しくお辞儀する。


「お見知りおきを。ちなみに私は犬との半獣だ」


 ツアムが目礼して口を開いた。


「あたしは…」


「いや結構。君たちがここにいる期間は短いんだ。わざわざ名を覚える必要はない」


 言いながら、ホーパーはクインリーが座っている同じ長椅子に腰かけ、両手をクインリーの首に伸ばして脈を測り始めた。ツアムたちのことなどもはや目もくれない。その態度にスキーネとポピルの表情がムッと強張った。


「ねえ、あなたたちはどこから来たの? ギルダーなんでしょ? この街は初めて?」


 クインリーが気さくな調子でツアムたちに聞いてきたので、ツアムは当たり障りのない言葉でこの街に来た経緯を述べた。その間、ホーパーはクインリーの体の至る所を触診し、異常がないかを淡々と調べていく。スキーネがヴァンドリア国大臣の令嬢であると伝えると、クインリーの目がひときわ輝いた。


「ヴァンドリア! いい国よね。戦争が起きる前に一度だけ劇団の遠征で首都に行ったことがある。シフォニーア劇場といったかしら? あそこは観客席との距離が近くていいわよね。それと主演の控室にも驚かされたわ。本物のサファイアが埋め込まれた銅像があるんですもの。内装も豪華だったし、まるで王室のようだった」


 クインリーの話し方は抑揚が強く、まるで歌を歌うように喋りかけてくる。天性のものなのか、あるいは台本の台詞を発し続けた訓練の賜物なのか、人を惹きつける魅力を自然と振りまくので、いつの間にかスキーネも笑顔になっていた。


「私も子供の頃に見学させてもらったことがあるから知っているわ。でも豪華さを競うのなら、この部屋だって見劣りしないと思うけど」


「ああ、この部屋はね。新劇場を作った建築士が私の為に作ったって言い張っているの。国一番の女優には国一番の部屋を用意するってね。ありがたいとは思うけど、お客に見えないところにこだわっても、ねえ。正直なところ、自分が普段使う控室なら、もっと森の中のような空間の方が落ち着くのよ私。ほら、キツネの獣人だし」


 そう言うと、クインリーは四人に向かって頭の上の耳をピクピクと動かして見せた。ナナトが思わず「わあ」と声を上げるので、スキーネが「こら、失礼でしょ」とたしなめる。


「獣人が珍しいのね。ねえ、もっとすごいもの見せてあげようか?」


「感心しないね、クイン」


 冷や水を浴びせるかのようにホーパーが言い放った。


「観客を楽しませるのが性分なのは理解しているが、彼女らはあくまで金で雇われた君の護衛だ。必要以上に話しかける必要はない」


 しんと部屋が静まり返った。クインリーは「あなたのお金で雇ったわけでもないでしょ」と返したが、ホーパーはふんと鼻を鳴らしてツアムたちを見つめる。


「憧れの女優とお近づきなれて浮かれているのだろうが、身の程をわきまえたまえ。君たちは仕事のためにここにいる。あまり分相応な態度が目に付くようなら、支配人に掛け合って解雇してもらおう。肝に銘じておくのだ」


「ひどいわ、ドクター」


 クインリーがなおも言いかけると、ホーパーは「異常なし」とだけ告げて立ち上がり、部屋の入口へと歩き出した。ちょうどそのとき、ドアがノックされて台車に昼食を載せて運んできた獣人の男が入ってくる。


「クーリン、昼食だぞ。今日はローストビーフだ。おやドクター、また来てたのか?」


「検診が終わって帰るところだ。失礼する」


 二人は入れ違いに部屋の敷居をまたいだ。


「クーリン、ほら、温かいぞ。見てみろよ」


 クインリーはため息をついて立ち上がった。


「その呼び方はよして。カッシュ。もう子供じゃないんだから」


「クーリンはいつまでもクーリンだ。ほら」


 仕方がないというふうに眉を寄せて、クインリーはナナトたちを見た。


「引き留めておいてごめんさない、昼食は一人で取りたいの。午後からの護衛の件、頼んだわ」


 今度こそ部屋から出ていく所存でツアムが立ち上がる。


「お任せを。さ、みんな行こう」


 ツアムは部屋から出る際、カッシュと呼ばれた獣人とすれ違いながら彼を一瞥した。支配人と同じか、それより上ぐらいの歳に感じるクマの獣人だ。背丈は角熊つのぐまの成体ほどではないものの、二メートルをゆうに越え、腹はヒト一人を丸呑みしたかのように出っ張っている。クインリー・カースティが近づけば近づくほど絹のような質感の美しい毛並みに目を奪われるのとは対照的に、このカッシュというクマの獣人は、遠くから見てもくたびれ老いた毛並みだとわかった。すさんだ私生活を過ごしているに違いない。


 カッシュは頼まれてもいないのに昼食メニューの解説をはじめ、クインリーは辟易した様子で対応していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る