第59話 ウドナット

 とっとと離れろクソ熊野郎! いつまで僕のクインリーに臭い息を嗅がせるつもりだ! 


 部屋に残ったクインリーとカッシュのやり取りを、青筋立てて覗いている男がいた。

 

 壁に貼り付けられた絢爛けんらんなタペストリーの上方中央部分。

 暗い地色をした幾何学な模様が交差するその一点に覗き穴が開けられており、衝立で仕切られた着替え場の奥以外の控室全体が見渡すことができる。こちらから覗く分には理想的な上、部屋の中から見た場合では相当壁に近付いて注視しなければ気付けない。無論、覗き穴の位置もタペストリーのデザインも計算して建築した結果だ。


 今年で四十二を迎えるヒト種の建築士、ウドナットは、ホーパーが退出する少し前からクリンリーの控室と隣の部屋との間に作られたこの空間に息を潜めて中の様子を観察していた。長居しても窮屈にならないようあえて広いスペースを設計し、屈みやすい台座をも設置してそこに座っているので苦ではない。なにせ建築責任者として、この新劇場の設計図を描いたのは他ならぬ自分なのだ。当然、劇場の図面にはただの壁としか描かれておらず、この秘密の空間に入るためには、上の階の物置小屋から隠し扉を使わなければならない。他の建築作業員の目を盗んでコツコツと覗き部屋を作るのにはさすがに骨が折れたが、控室でくつろぐクインリーの姿を見たい一心で完成せしめた。覗き部屋やそこに至るための隠し扉も知っているのは自分以外に誰もいない。作業員たちを使役できる立場にあったのも大きいが、なにより慎重に事を進める自分の性格のおかげだとウドナットは思っていた。


 部屋の中では、カッシュが半ば強引に背中を押されて退出を促されているところだった。クインリーの態度を見れば好意がないことは丸わかりだろうに、カッシュは彼女に対するアプローチをやめず、クインリーに昼食や差し入れを運ぶ役を買って出ては、一緒に部屋で食べようと提案する。


 忌々しい。だからお前は劇団のしがない大道具係なんだ。


 手先は不器用で行動も大雑把。物忘れがひどいのか、それとも舞台の上のクインリーに見とれるのか、取り掛かっている仕事をすぐに放置する。それでも古くからこの劇団に在籍し続けているのは、単にヒト種では考えられない怪力を買われ、大荷物の上げ下げや高重量の舞台装置切り替えに役立つからだ。ようは、腕っぷしに自信のある獣人なら誰でも取って代われる。古参としてのプライドだけが高く、仕事に対して怠慢な者はウドナットが最も嫌う人種だった。もしあいつが自分の会社に居たら一日と経たずクビにしているだろう。 


 クリンリーはようやくカッシュを放り出すと、昼食の皿を取ってテーブルに並べ始めた。すうっとウドナットは息を吐く。これ以上あの馬鹿熊が騒いでいれば、我慢できずに壁を叩いていたかもしれない。怒りで強く噛んでいた奥歯を緩め、ここからが至福の時間だと自分に言い聞かせて再度穴を覗く。クインリーはウドナットに対して正面を向く形で食べ始めた。


 絶えず美しい。


 名女優として国境をも越える評判を持つ彼女には、当然、老若男女のファンがいる。が、自分以上に彼女を愛する者はいないと、ウドナットは自負していた。初めて彼女を見たのは十二年前。十五歳になった彼女が主演として初舞台に立ったときだ。それ以前から舞台場の建築の仕事を何度も請け負っていたウドナットだったが、実は完成した舞台劇を鑑賞したことは一度もなかった。そこで当時の妻に“これも勉強だから”と勧められ、あまり気乗りしないまま足を運んだのがクインリー主演の劇だ。


 そこで自分の人生の全てが変わる。


 その圧倒的な演技に、突出した存在感に、見たこともなかった美貌にウドナットは魂から虜になった。


 それ以来、彼女が出演する劇には、たとえ脇役であったとしても欠かさず観に行くようになり、仕事とクインリー・カースティの二つだけが人生だといえる生活に陥っていく。家庭を顧みず、妻との会話も途切れ途切れになっていき、ついに五年前、離婚を切り出された。“なぜ君はクインリーじゃないんだ”となじったのがトドメだったらしい。独り身の生活になったが後悔はまるでなかった。二人の間に子供はいなかったし、二十年連れ添った妻よりも、自分が初めて観に行った演劇がクリンリーの初舞台だったことの方がより彼女との運命を感じられたからだ。


 彼女の全てを知りたい。そして自分だけが、彼女の真の理解者でいたい。


 覗き部屋を設けたのはそんな純然たる理由からだ。だが控室でクリンリーの姿を見るうち、徐々にウドナットの心境に変化が現れた。この場の彼女を知っているのは世界で自分だけであるという優越感に愉悦を覚えはじめ、やがて部屋の中でクインリーが演技の稽古をし、毛繕いし、爪を切り、化粧をするといった他人の目を一切気にしないその様子を見るにつれ、ウドナットは自分が彼女と一緒に生活しているような妄想に囚われた。


 実のところ、彼女は覗き穴にとっくに気付いていて、自分を信頼しありのままの姿を見せているんじゃないか? もしかすると彼女もまた、覗かれることをある種楽しんでいて、ウドナットが声を掛けるのを毎日待っているのかもしれない。内装作業がすべて終わり、劇場が完成した夜にでも夕食に誘おうかと、ウドナットは考え始めている段階だった。


 ふと、昼食を食べ終えたクインリーがおもむろに立ち上がり、着替え場の奥へと去っていく。そしてすぐにまた椅子まで戻ってくると、何やら一枚の手紙を読み始めた。


 まただっ!


 ウドナットは興奮して台座の上で座り直し、穴を見る目をより見開いた。一か月ほど前からクインリーはこうしてどこからか、おそらくは自分の手荷物だろうが手紙を取り出して読みふける。ここからでは何が書かれているのかわからないが、手紙を読む彼女は今まで見たこともないほど不安げな表情になっていた。


 誰からの手紙なんだ! まさか恋文? だとすればあの顔の意味は?


 クインリーは手紙を何度か読み返した後、手で細かく散り散りに破いて食べ終えた昼食の食器の上にばら撒き、食器を台車に片づけた。明らかに手紙を誰にも見られたくない処分の仕方だ。手紙を読む日は不定期であるものの、読むときクインリーは決まって手紙を破いて捨てる。ウドナットは手紙の内容が知りたくてたまらず、声を出して聞こうとする衝動を何とかして抑え込んだ。


 最初にクインリーのその行動を見たときは気になって一晩眠れなかったほどだ。二度目に同じ光景を目にしたその翌日、ウドナットは我慢できずに彼女の控室へ侵入した。誰にも姿を見られないよう僅かな時間を作って入ったため、彼女のカバンに手紙が見つからず焦った結果、彼女の衣服を丸ごと盗んで部屋を出た。服のポケットに手紙を入れていたのかもしれないとの考えだったが、服を自宅へ持ち帰り、丹念に探しても手紙は見つからなかった。たまたまその日は手紙がなかったのかもしれないし、あるいはウドナットが知らないところですでにクリンリーが読み終えて捨てていたのかもしれない。


 盗みを働いた罪悪感はあったものの、ウドナットはすぐに意識の彼方へ押しやった。どうせ自分と彼女は倒錯した愛情関係にあるのだ。他の人物なら怒るとしても、自分ならばクインリーは許してくれるという確信がある。


 手紙の内容と、彼女の曇った表情の理由。

 なんとしてでもそれを暴かなければならない。僕は世界一彼女のファンであり、真の理解者なのだから。

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