第22話 下層へ

 暗く、湿った坑道をルッカとナナトが進んでいく。

 やがて二人は地面に開いた大きな穴に出くわした。距離にして十メートルはある穴で、とてもジャンプでは跳び越せない。底はどうなっているのかわからず、ただ大きな闇が口を広げて跳び込んでくる者を待ち構えている。


 ナナトは壁の岩を掴んで、できるだけ壁沿いにカニ歩きすれば進めるかもと試してみたものの、とても全体重をかける足場がなくて諦めた。前は大穴、後ろは落ちてきた石や岩がうず高く積もれたがけ崩れ跡。完全に立ち往生だ。


「ナナト、ロープを出すからこれを持っていてください」


 ルッカはそう言ってナナトに松明を手渡すと、羽織っていたケープを脱いだ。ゆるい曲線を描くその腰のベルトには、長さ二十メートルのロープがとぐろ巻きの状態で吊るされている。洞窟に入る前に準備しておいた分だ。

 ルッカはベルトから弾薬やトンファー型ライフルを全て外して身軽になると、ロープを腰に巻き始めた。


「落ちることはないと思うんですが、念のためこうして巻いておきます。一応ロープの端を持っててくれますか?」


「え? まさかこの大穴を壁伝いに渡るつもりなの? 無理だよ。手で掴むところはあるけど足をかけるところがないんだもん」


「大丈夫です。信用して」


 本気でロッククライミングするつもりなら、少なくとも穴を渡りきる十メートルの間、ほぼ握力だけで体を支えて壁を移動することになる。不安げに見守るナナトをよそに、ルッカは両腕を交差して軽い柔軟体操をし始め、ふうと軽い深呼吸を一つして、穴の淵から大股で跳躍した。


 ナナトの予想していたロッククライミングではなく、ルッカは、両側の壁をトントンと交互に蹴って前へ進んでいく。両側の壁の幅は三メートル。人間の跳躍力ではまず不可能だ。しかしルッカはまるでムササビが木から木からへと滑空するがごとく、静かに、体のバランスを崩すことなく壁を蹴って跳び、反対側へと着地した。


「凄いよルッカ!」


 ナナトの感嘆に少しだけ照れた様子を見せたルッカは「壁際にロープを張りましょう」と提案した。

 巨大な地面の穴をまたぐように壁際へロープを張り、そのロープを伝って荷物とナナト自身の移動を終えると、ルッカはおもむろに坑道の先の闇を見据えた。


「どうしたの?」


「どうも変なんです。間違いなく新鮮な空気はこの先から来てるんですがほら…」


 ルッカは手に持っていた松明でこれから進む洞窟を照らして見せた。


「下り坂になっているでしょう? 私たちが入ってきた上の入口から空気が流れてくるならわかりますが、下層から新しい風が来るっていうのは…」


「…とにかく行ってみよう」


 ルッカとナナトは、湿った土の洞窟を歩き出した。

 十五分ぐらい歩いただろうか。一匹の石鼠いしねずみと出くわすことなく坑道の下へ下へと進んでいた二人だったが、突然ルッカが立ち止まった。後ろを歩いていたナナトも同じく動きを止め、手は自然とリボルバーライフルに伸びる。


「話し声がします。男が二人」


 ルッカのささやき声を聞いて、ナナトも真剣に耳を澄ませてみた。しかし聞こえるのは坑道を駆け抜けるヒューヒューという不気味な突風だけだ。猟で培った五感にナナトはそれなりの自信を持っていたものの、獣化じゅうかしたルッカには敵わないらしい。


「ここからは松明を消して進みます。真っ暗になるから手をつないで。無理かもしれませんが、できるだけ足音も立てないようにしてください」


「うん」


 ルッカは燃え盛る松明の火の部分を地面に置くと、上から足で土を蹴って被せた。湿った土を被される度に炎は弱まり、何回目かの蹴りで消失する。蝋燭ろうそくを吹き消したときのような燻ぶった匂いを残して、二人は暗闇に取り残された。


 急に、気温が三、四度下がった心地がする。どれだけ目を凝らしても暗黒しかない景色にナナトは不安になった。痛いほど目に力を入れて見開いていてもまるで瞼を閉じているような不思議な感覚だ。この中で十分も歩いていたら、そのうち自分が立っているのか浮かんでいるのかさえわからなくなってくる気がする。


 ナナトは暗闇が苦手だった。八歳の頃、深い森の中を祖父と馬で隣村まで歩いたことがあり、そのときも今のような星明りさえ届かない闇の中を祖父と自分が掲げているランプ頼りに進み、周囲から聞こえる風が草を揺らす音や木々のきしみに猛獣が近くにいるんじゃないかと妄想して心細い経験をしたことがキッカケだ。まるで永久に暗い世界へ閉じ込められてしまったかのような気分を味わい、ナナトは森を抜け出すまですすり泣きをやめることができなかった。


 ナナトがそのときのことを思い出して不安に駆られたとき、右手をルッカが掴んだ。獣化したルッカの手は、びっくりするぐらい柔らかい毛で覆われている。「こっちです」とルッカが囁いた。


 ルッカの手に引っ張る力が加わり、ナナトはゆっくりと足を前へ出す。地面がどんな状態かわからないのに忍び足をするのは苦労したものの、ルッカは自分の手を握っているルッカの感触が心地よくて何度も強く握ったり弱く握ったりを繰り返した。こんなときに人の手で遊ぶなとルッカは思ったかもしれない。けれど何も言わず、慎重に、しかし迷いなく前へと歩を進めていく。ナナトはルッカの手から伝わってくる体温に安心感を覚えながら、半獣人の手の平に肉球はないんだなーっと考えたりした。

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