💧 第20話 水 月 💧



 サイはあの日、レンが川に落ちた時、確かに助けるために川に飛び込んだ。

 元々人魚であったから泳ぎは人よりずっと速い。それだからすぐに流されるレンに追いついた。


 サイは一瞬レンの手を掴んで、ふと思った。


 やはり、縁とは恐ろしいものだ。双子として生まれてきたレンは、前世ではコウの許嫁であった娘だった。

 レン自身はそんなこと覚えているはずもなかったが、何かにつけてサイをイライラさせる、そんな存在だった。可愛らしくて子供っぽい、いつもニコニコしていて、大人に対してあざとく擦り寄る仕草も大嫌いだった。


 家族写真を見て、アヤがサイだと言った方の少女こそ、レンに違いなかった。

 そして何より、毎日同じ空間にいたレンが、いつしかアヤの異常さに気づき始め、いちいち母親に告げ口するようになってきた。


 アヤは、確信を持って掴んでいたレンの手を離した。

 つまりは、殺したのだ。

 その後母親が、溺愛している方の娘を失ったショックで心の病になり、自殺したのは不可抗力だった。

 

 「私が死なせたんじゃない?」


 思わず考えていたことがアヤの口から漏れた。


 「そうよ。直接殺したのは私。8才の子がしたことだなんて誰も思ってなかったでしょうね」

 

 母親が死んで、父親とアメリカに行ったのはハジメの家族と離れるためだった。ハジメの家族もサイが少しおかしいと怪訝に思っているのを分かっていたし、さすがにそんなにたくさんの人を殺すのも怪しまれる。

 やむを得ないことだった。


 それでもなるべく早く日本に戻ってきたかった。

 サイは周りの人間を上手く操り、大学を飛び級して卒業し、日本へ戻ってきた。別に勉強ができるわけでも、秀才なわけでもない。サイ自身も人間として生きてゆかなければならないから、なるべく人間の世界に沿った生き方を選んでいるつもりだった。

 サイの父親が裕福であるのも、サイ自身が周りの人間を操って富を得ているためで、父親の事業が成功したのも全てサイが父親を操っていたからだった。


 日本に戻ってきて、近隣の高校をいくつか巡りアヤを探した。

 六月のあの日、バスの中でアヤを見つけた時の喜びは例えようもない。

 高校の職員も校長も、上手く操った。

 ただ、同じ学校にハジメがいたことは予想外だった。しかし幼い頃のことだ、ハジメも大したことは覚えていまいと思い、そのままにしておいた。


 幼かったアヤが川で溺れたあの時、サイが水中でアヤの手を掴んだ瞬間、アヤは一時思い出したのだ。前世の記憶を、そして海で溺れた先日のように、恐ろしさのあまり再び記憶を閉じ込めた。


 キラキラと光る水面の夢は、前世の記憶の断片であった。


 

      💧 💧 💧



 サイがどれだけ深く自分を求めているのかは理解できたが、それでも殺人の上に成り立つ愛などあり得ない。

 アヤの目から涙が零れた。

 前世でも今生でも、自分はこの人魚と思しき存在に完璧に恋をしている。そしてそれが、多くの人の尊い命を奪う結果となってしまった。


 「こんなの……こんなのひどいよ」


 「そうだね、ひどいね。人魚は残酷だね。でも、人間だって同じ。はるか昔のことだけど、人間と人魚は仲が良かった。でも、私たち人魚の肉を口にすると永遠の命を手に入れることができるって知った人間は、人魚を捕えて食べようとしたわ。実際食べた人間がその後八百年以上も生きてたって話もある。だから私達は人間の世界から姿を消すしかなかったのよ。人間はいつだって自分たちが正義だと思ってる」 


 確かにそうかもしれない。しかし、今のアヤには人間の命も、人魚の命も、同じ重さに感じられてならない。

 しかしそのあとサイが、自分の命を長らえるために人間の男の血を必要とし、そのためにクラスの男子を餌にしたと話した時、命の重さについて説くことはもはや意味のないことだとも思った。

 サイが忘れさせたのだろう。いなくなった男子生徒の名前や顔をアヤは何一つ覚えていなかったし、きっと周りの誰もが家族でさえも、存在していたことすらなかったことにされているに違いない。

 そこまでしても。いやサイにとっては、コウの魂を得るためならば人間の命など取るに足らぬものなのかも知れない。

 アヤは立っていられなかった。体中の力が抜け、その場にしゃがみ込んだ。


「もう……もういいよ。魂でもなんでもサイにあげる。だからもう終わりにして」


 アヤがそう言いながら上を見上げると、そこにはふんわりと優しい笑顔のサイがいた。それを見たアヤは涙が溢れて止まらなかった。


 「わたし……私ね。やっぱりサイが好き」


 どんなことがあっても、この笑顔と離れたいとは思えなかった。

 前世のあの時、逃げてさえいなければこんなに多くの人は死ななかっただろう。それよりもサイが初めから人魚だと言ってくれていても、自分は受け入れていたかも知れない。

 後悔しても何もかも遅いが、もうこれ以上間違いを犯してはいけないと思った。


 「私、どうしたらいい?どうしたらサイに魂をあげられるの?一緒に死ぬ?」


 サイはアヤの前に膝をつくと、優しく抱きしめて言った。


 「私も大好き。アヤ……いえ、コウ。一年で一番大きな満月の夜、私達が結ばれれば、あなたの魂は私のものになる」


 それはいつなのか、アヤが聞こうとした時、


 「でもね、それは、男女の契りでなければなならないの」


と、サイは話を遮った。


 それは、まさしく今日なのだ。

 一年で一番大きな満月の夜。

 倉庫の窓から見えるプールの水面に、ひときわ大きく浮かぶまあるい月が、二人をじっと見つめているようだった。


 スイミングスクールでアヤを初めて見た時、サイはすぐにその子がコウだとわかった。なぜならば、アヤの耳の後ろアヤからは絶対に見えないその場所に、サイの足の付け根にある、鱗のような赤い小さなアザと同じものがあったからだった。

 それは前世でコウが息を引き取る瞬間にサイが口付けて残したもの。次の世でも一目でわかるように示したものに違いなかった。

 見つけた時は本当に嬉しかったが、それと同時にその子が女の子であったことに愕然としたのだった。

 コウが自分から逃れるために、女の子の体に魂を宿したのかと失望したのだった。


 「アヤとはどんなに体を合わせても、愛し合っても、魂をもらうことはできないの。こういうの、人間は不条理って言うのよね」


 だから……だからだ。


 「今から、アヤの持っている私の記憶を全て消してあげる。コウが見た私の恐ろしいと感じた姿も、もう思い出したりしないように。そしてこれからアヤは、『アヤ』という人生を一生懸命に、楽しく幸せに生きて」


 アヤは目を見開いてサイを見つめた。そして首を横に振って嫌だと言った。


 「忘れたくない。サイとずっと一緒にいたいよ!人魚だって化け物だって構わない。私、サイのこと愛してる」


 アヤはサイにしがみつくように抱きしめた。サイはこれほど嬉しいことはないと思った。確かに自分を理解し、一緒に生きていこうとしてくれることは何よりの喜びであったが、人間として生きているアヤにこれ以上の苦しみを与えるのは嫌だった。


 長い間、人間の姿をして生きてきた。もし、自分が生きてゆく上で人間の血を必要としないのであれば、きっとこのアヤの提案を受け入れたかも知れない。

 しかし、この先なにもかも知ってしまっているアヤと2人で生きてゆくことは、アヤに人間界の犯罪の片棒を担がせることになる。その度にアヤの記憶を操作すればいずれ何処に歪みがでるはずだ。

 どう考えても、アヤ自身が幸せになどなり得ない。

 今まで、サイにとってはコウの魂が全てであった。それさえ手に入れば、海に戻ることができる。自身の魂も守ることができる。

 しかし今、アヤが自身の魂を、命を諦めたように、またサイも自分の魂に限りをつけるつもりになった。


 愛する人間の為に。


 「ありがとう。私もおんなじ気持ちだよ。だからこそ、アヤには幸せになってもらいたいの。大丈夫、次に生まれ変わっても必ずあなたのことを探し出すから。……ね、約束」


 アヤが何か言いたそうにサイの顔を見上げた時、サイはアヤの唇を塞ぐようにキスをした。

 なんの迷いもないキスだった。角度を変えて何度も深いキスを交わした。アヤの頬に幾筋もの涙が溢れるのを感じながら、そっと唇を離すと、耳元へ口を近づけてこう言った。


 「私と、私に関する全てことを忘れて。そして人間として幸せに生きること。生まれ変わってまた会いましょう。……それまで、さよなら」


 そんなことをしても無駄だとはわかっていまが、アヤは両手で耳を塞いだ。

 耳の奥でキーンという音が響いたかと思うと、次の瞬間目の前が真っ白になった。



      💧 💧 💧




 昨日から降り続く雨は、午後になっても止むことはなかった。


 彩は雨の降っている日の自室が好きだった。

 大きな窓台に膝を抱えるように座り、じっとガラスの向こうの雨粒だけを見つめていた。

 それはとても幸せな時間で、いつも何かに守られているような安心感を覚える。


 先日の文化祭は大成功だった。

 男女逆転「人魚姫」。

 自分が務めた王子は多少身長が足りないものの、堂々とした立居振る舞いがとても好評だった。

 公演の後校舎裏で、前から思いを寄せていたと、バスケ部のキャプテンであった生田という男子から告白されて、交際をOKした彩。

 今日は土曜日で、午後から図書館デートをすることになっている。

 彩は窓台から降りると、クローゼットの中から服を選んで袖を通した。

 バッグの中に必要なものを入れる。


 チリンッと、バッグにつけていたピンク色の鈴が鳴った。


 「あ、そうそうハンカチ」


 タンスの小引き出し開けてを出す。


 「あれ、こんなの持ってたっけ?ま、いいか」


 彩はハンカチをバッグにしまうと、スマホを持って自室のドアを開け、ウキウキしながら歩き出した。



           つづく



 

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