💧 第18話 水鏡 其の弐 💧


 しかし、その時すでにコウには許嫁があった。両替商を営む大店の次女で、愛嬌のあるとても可愛らしい娘であった。

 つまるところ、サイにとっては邪魔な存在である。


 しかたなく、サイは密かに娘をこの世から消した。そして、秘密裏に死体を海に捨てると、海の生き物たちに骨まで喰わせて始末した。

 突然行方不明になった娘を、他の男と駆け落ちしたように見せかけると、サイは何食わぬ顔でせっせと奉公に勤しんだ。


 コウはサイに夢中だった。これほどの美貌で、仕事も真面目にこなす。従順で明るくて朗らか、何より自分のことを心の底から愛してくれている。コウの心を鷲掴みにしたサイは、勝ったも同然と思っていた。


 しかし、話はそれほど簡単ではなかった。そもそも、どこの馬の骨かもわからないただの奉公人のサイを、コウの両親が家へ迎え入れることを許すはずがなかった。

 初めは人の世界に馴染もうと必死だったサイだが、やはり思う通りにならなければ、それはどうにかするしかない。


 母親を手にかけ、許嫁だった娘と同じように海へ捨てた。

 そして最後に父親を始末するため息の根を止め、その血をサイの栄養として美味しく頂いている時だった。とうとうそれを、コウが見てしまった。

 サイが人間の姿でいるために必要なもの、すなわち、男の血。

 誰も見ていないと思っていたのだ。

 納屋へ上手く父親を誘い出し、話をしていた時から、コウはずっと物陰に隠れてそれを一部始終見ていたのだ。


 「すいません。本当はこんなことするつもりじゃなかったんですが、あの娘も、奥方も私が始末しました。これから旦那さんがあちらの世界に行って、お二人にサイが謝っていたとお伝えください」


 サイは淡々とそう言って、抵抗している父親をあり得ないほどの力で抑え込み、その首に噛り付いて思い切り血を吸った。

 見ていたコウはあまりのことに驚いて、思わず声を上げてしまった。それに気付いたサイが、声のした方向に振り向いた。

 その時コウが見たそれは、口が耳元近くまで大きく裂け、歯の一本一本が牙のように鋭くとがり、顔の半分を真っ赤な血に染めた、まさしく怪物の様相をしたサイだった。


 今、ここから出ていって止めたところで、父親は助かりそうもないくらい血を抜かれ体中が干からびていたし、サイの化け物のような姿に、とても自分が敵うような相手ではないことを悟ったコウは、その場から逃げることしかできなかった。


 「コウ!」


 サイは血まみれのまま追いかけた。顔はいつものサイに戻ってはいたが、あちこちを血に染め走る姿は、とても尋常とは思えなかった。

 あれほど愛し合っていると思っていた男に一目散に逃げられ、サイは焦った。


 「コウ!コウ待って!」


 コウは港まで逃げてくると、出航間近の船を見つけ飛び乗った。船が岸壁から離れると思った時、人とは思えないほどの速さで追いついてきたサイが船に乗り込んできた。


 息を切らせながらどんどん逃げていくコウを、息を乱すことなく、そしてひどく悲しそうな表情でゆっくりと後を追うサイ。

 そしてとうとう船首まで追い詰められ、コウは逃げ場を失った。

 船上では、突然乗り込んできた若い男と、血まみれで追いかけてきた若い女に驚いて、何事かと船員達が二人の周りに集まってきた。

 何人もの人間に囲まれ、血まみれのサイは万事休す。

 どう見ても、今のサイの姿は尋常ではないだろう。おかしいと思った船員の一人がサイを捕まえようと腕を掴んだ。

 そうなると、サイは抵抗するしかなかった。甲板で暴れ、次々に手を出してくる船員達をあり得ない力で振り払った。

 そのうちひとりの船員が、運悪く振り払われた勢いでコウにぶつかり、コウは均衡を崩して海へと放り出されてしまった。

 進んでいく船の下に潜り込んでしまったコウは、船底に着物がひっかかり水面に上がることができなくなってしまった。

 

 水中で上を見上げていると、太陽がキラキラと水面に光って、波紋が美しい。

 上から誰かが自分めがけて泳いでくる。

 サイだ。


 もがいても、もがいても着物がはずれることはなかった。

 そのうち息が苦しくなり、どんどん意識が薄れていった。



      💧 💧 💧



 浜辺に引き上げられたコウは虫の息だった。

 サイもどうすることもできず、この世を去ってしまうであろうコウの耳元でこう言った。それは、人魚のサイにしか考えられない苦肉の策であったろう。


 「忘れないで、……約束よ。絶対に覚えていて。どうか生まれ変わって、私にあなたの魂を頂戴」


 そうしてコウは息を引き取った。


 サイは、人の世のしきたりにならって、墓を堀りコウの遺体を丁寧に葬った。海の見える小高い丘の上だった。

 

 コウが死んでしまってはどうしようもない。

 しばらくして体は人魚の姿に戻ったが、サイはどうしてもコウをあきらめることができなかった。

 それは人間の言葉で言う『愛』と言うものなのかもしれない。もう一度、あの笑顔が見たい。優しいまなざしや言葉をかけられたい。そして何より、抱きしめたいと思った。

 悲しくて仕方がなかった。

 人魚でいた頃には、こんな気持ちになったことなど一度もない。

 愛する人を失うということが、こんなにも切なくやるせないとは……。

 

 サイはもう一度、海の魔女の住む深海を訪れた。

 そしてある契約を交わした。それは『人魚の約束』、魂の契約だ。


 「ではもう一度だけ足をやろう。本当にいいんだね?この契約の条件は、愛した人間が二度生まれ変わる間に、その人間の魂を手に入れることだ。その年の一番大きな満月の日にを交わす。その時、その男がお前のことを覚えていなければ、海の泡になるどころかお前の魂は消滅し、二度とこの世に生を受けることはない」


 サイは愛する者の為、全てをなげうつつもりでいた。人魚の大事な尾ひれと魂とを担保に、サイは人間を自由に操る声を手に入れた。それは人間にしてみれば超音波のようなものかもしれない。

 サイはその声で、どんな人間でも自分の思う通りに操ることができる。


 人の姿はこのままに、生まれ変わっていくコウの魂をどこまでも追い続けなければならない。男の血を啜りながら人の寿命を全うし、また違う人間に生まれ変わる。

 果てしない旅を続けなけれなならないが、サイはそれでもコウが恋しかった。


 

            

           つづく

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