💧 第17話 水鏡 其の壱 💧


 江戸時代、寛文の頃。

 コウは、呉服商を営む父と共に、大阪から多くの荷を江戸へ運ぶための廻船に乗り、帰路を急ぐ航海の途中であった。

 今年、数え年で十九になるその青年は、父親から商人としての知識を得ながら、毎日充実した日々を送っっていた。

 廻船の船首に立ち、風を受けながら海を見る。

 果てしなく広く青い海。ぐるりと見渡しても、空との境目しか見えない。まっすぐ進む先には、輝かしい未来が待っているはずだった。


 同じように、海の只中にいた若者はコウだけではなかった。大海原を泳ぎ、遮るもののない自由なその海に身を漂わせているのは、人魚である。

 伝説の生き物とは、聞き捨てならない。

 古来、人間とは長い歴史の中でたびたび交わりを持って、この地、いや、海に生きてきた者達である。


 人魚の名前はサイ。

 水中から顔を出すと、ちょうどコウの乗った廻船が目の前を通り過ぎるところあった。

 船首に立つその青年を見た時、サイはその姿にくぎ付けになり、一瞬で心を奪われた。

 キラキラと希望に満ちた瞳、堂々とした立ち姿、明るい笑顔。その青年のことはそれ以外何もわからなかったが、その瞬間からサイの鼓動の高鳴りは止まらなかった。


 (どうしよう、あれは人だ。人間だ)


 サイは船が通り過ぎてしまうと、しばらくのあいだ悶々と考えて、とうとう結論を出した。そもそも、あまり悩む質ではない。

 サイは意を決すると、既に空と海との境目にしか見えなくなっていたその船を、飛び魚さながらの速度で追いかけた。

 長い時間泳いで港にたどり着くと、停泊する船に近づいて、サイはこっそり下船するコウの姿を覗き見た。

 やはり、美男だ。岡の上でもいい男だ。

 サイはどうしても彼に近づきたかった。


 方法はひとつしかない。

 海の魔女と取引をする。

 サイは、海の魔女のところへ向かうため、普段は絶対に行くことのない、全く光の当たらない、暗くて深い海の底へ潜った。

 きらきらと輝く鱗を持ち、心地よい速さで泳いでゆく可愛らしい魚たちはどこにもいない。波に身を任せて漂う海藻も、岩場に張り付いた花の様に咲くイソギンチャクや珊瑚の、色とりどりの色彩もない。まるでそこだけ時が止まってしまったかのように、波の揺らぎすらほとんど感じない海底に、海の魔女は身を潜めていた。

 光がないので姿も良く見えない。ただぼんやりと黒い影だけが砂煙の向こうに浮かんでいるのが判る。


 「足を、足を頂戴」


 「……それは、人間の男のため?」


 間延びした、ずいぶんとしゃがれた声がそう聞いた。

 サイが頷くと、それがむこうには見えるのか、


 「そうかい、いいよ。その代わり、人魚の命であるその尾ひれを頂くよ。お前は晴れて人の姿になれる。しかしいいかい、その姿はかりそめでしかない。お前が人として寿命を全うするためには、一生人間の男を殺し続け、血を吸って生きていかなければならんよ。それでもいいのかい?」


と、海の魔女が言ったのを、サイは二つ返事で快諾した。

 人魚であるサイにとって、人間の命の重さなど大したものではないと、その時は全く迷う気持ちなど無かったのだった。

 海の魔女は最後にこう言った。


 「万が一、その男の愛が得られなければ、殺せばいい。男が死にさえすれば人魚の姿に戻ることができる」


 そうして、海から岡へ上がったサイはまず浜辺で同じくらいの年頃の娘から着物を奪うと、コウの乗っていた船が停泊している場所へ向かった。


 コウと父親の姿を見つけてその後について行き、コウが大きな呉服問屋の跡取りだと知ったサイは、その美貌で上手く取り入ると、すんなりと呉服問屋に奉公することになった。

 そうしてコウの前に現れれた美しいサイの姿に、コウ自身もあっという間に恋に落ちたのだった。


 

           つづく

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