💧 第14話 漂 💧
八歳だったアヤは、あの出来事以前のことを覚えてはいなかった。
「レン、死んじゃったよ」
気を失う直前、サイが耳元で最後に言った言葉は、アヤの記憶の箱にがっちりと鍵をかけてしまった。
今日までずっと心の奥底に追いやっていたそれは、全て『罪悪感』によるものに違いなかった。
ようやく解った。自分自身がこれほどまでに人との関わりを避けてきた理由。いつも何か後ろめたさを感じていた理由。四方を遮られ、どこへも出られないような感覚。雨の日、自室の閉ざされた空間に身を置くことの安堵感。そこにしか居場所がなかっただけだった。
(私は、人前に出てはいけなかった。幸せになってはいけなかった)
自分はたった八歳の幼い少女の未来を、命を、奪ってしまったのだから。
アヤは自分自身の罪の重さに、胸が押しつぶされそうだった。
しかし、あの時同じく八歳だった幼い少女の過失を、いったい誰が責めると言うのだろう。
記憶のない少女に誰もその事実を突きつけることをしなかったのは、アヤが今感じている、この大いなるショックを避けるためだったと解る。
理恵が何度も、何も覚えていないのかと、聞いてくるたび、ひどく違和感を感じてきた。その質問になぜか、思い出したくないと思っていたことにも理由があったのだ。
アヤの自己肯定感の低さも、全てはその『罪悪感』によるものだった。
もう目を背けることはできない。
しかし、アヤは目の前にいるサイを直視できず、逆光に目が慣れ、焦点が合う前に両腕で自分の顔を隠した。
「アヤ?」
サイがアヤの腕に触れた時、アヤは咄嗟にサイの腕を振り払った。
見たくなかった。サイの顔を、自分の罪の重さを。
アヤは小さな声で、
「ごめんなさい……」
と、言ったままどうにも動くことができなかった。
そうしていると、生田がアヤの動きに何かを察して声をかけてきた。
「水嶋、帰ろう」
アヤはゆっくりと上体を起こし立ち上がると、促されるまま生田と共に歩き出した。
その場にいたクラスの仲間は、いったい何がどうしたのかわからず、ただ呆然としていたが、もっと状況を理解できないのはサイだった。
今の今まで、全てがサイの思った通りに進んでいたはずだ。
アヤがこんな反応をするとは、思ってもみなかった。
いつの間にか集まってきていた人だかりも、心配して駆けつけていた監視のライフセーバーも、当の本人が無事で何事もなかったかのように歩き出したのを見て、蜘蛛の子を散らすようにいなくなっていった。
💧 💧 💧
アヤと生田は海を後にしてバスに乗った。
サイの他にアヤの家を知っている者が生田しかいなかったし、アヤもひとりで帰れないわけではなかったが、今は生田の好意に甘えたかった。
生田は知っているのだろうか、レンを死なせてしまったのが自分だということを。
そもそも、自分があの時の『アヤ』だということを分かっているのだろうか。
バスの中、長い沈黙が続いた。アヤも時折小さく溜息をついては窓の外を見るだけだったから、生田もどうしていいかわからず、チラチラ様子を窺うだけだった。
しばらくして、これはもう切り出さなくてはいけない状況だと感じた生田が、思い切って話し始めた。
「アヤちゃん……、だよね。思い出したんでしょ?」
(やっぱり……。知っていて何も言わなかっただけなんだ)
アヤは、小さく頷いて目を伏せた。
「望月にも言われたし、俺も気付いてたんだ。何も覚えてないんだなって。忘れたかったんだよね。しょうがないよ。あんなこと、小さい子には覚えておきたいことじゃない」
そう言われて、アヤはなぜかスーッと冷静になる自分を感じていた。
社会的に罪を問われるわけではないし、生田に好かれたいわけでもなかったから、
「私が、レンちゃんを川に落としたって言ってもそう思う?」
生田の顔を睨んで涙目でそう言ったアヤを、生田はとてもやさしい顔で見つめていた。
「たとえそうでも、俺、アヤちゃんが好きだよ」
(……どうして?どうしてそんなことが言えるの?)
アヤは、生田の純粋さがただ恨めしかった。どうせなら嫌われてもいいのにと思いながら、着ている服の裾をギュッと掴んだ。
生田は、レンが亡くなってしまったあの日。幼いながらもいろいろなことを感じていた。
双子の姉妹が死んだというのに、涙ひとつ流さないサイのこと。アヤの両親が、自分達には関わりのないことだという風に振舞っていたことに、違和感を感じていたこと。
三人で遊んでいて誤ってレンが足をすべらせてしまい、アヤを巻き添えにして川に落ちた、とサイが話していたことで、誰も、何のお咎めもなく終わってしまったあの日の出来事。
生田にとっては忘れることなど出来ない、強烈な思い出だった。
そして、八歳だった自分の、多分あれは初恋だったと思う。その子の笑顔がどうしてももう一度見てみたかった。十六歳になるまで忘れていたその思いは、高校の入学式でアヤの顔を見た時に一瞬で蘇ってきた。
それから、視線の先にはいつもアヤの姿があった。自分のことを全く覚えていないアヤ。あの頃のように、明るい笑顔を全く見せくなってしまったアヤ。それでもいつか告白しようと心に決めていた。
アヤが全てを思い出した今、支えになりたいと心底思っていた。
生田はそれ以上何も言わなかった。
ただ、今は静かにアヤの心に寄り添うことが大事だと思ったからだ。
💧 💧 💧
海岸に残されたクラスの仲間たちは、アヤと生田の去ったあと、気を取り直して海での思い出作りに興じ、日が暮れるまで楽しんだ。
そうして、アヤを除いた女子五人と生田を除いた男子五人は、それぞれ岐路に着いたのだった。
その日から、アヤがサイと連絡を取ることはなかった。
つづく
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