💧 第11話 水 際 💧


 思わず、ギュッと目を瞑る。


 体が固まって動くことができないでいると、サイの両手が優しくアヤの頬を包み込んだ。


 「アヤ、冷たい。冷房効き過ぎてるんじゃない。大丈夫?」


 耳元で囁くように言われると、ゾクゾクする。

 

 緊張で、サイの言葉もアヤの耳に入ってはこなかった。

 ひたすら自分の心臓の音だけが聞こえてくる。

 もう、この流れに身を任せるしかなくなって、アヤはなんの抵抗もしなかった。

 それ以上に、もっと自分を求めてほしくて、期待で胸がいっぱいになる。

 意識の奥底で、そんなやましい感情を肯定してしまう自分に、『これは愛だ。サイも自分を好きでいてくれてる』と、アヤは勝手な理屈を言い聞かせていた。


 サイの手が、それはそれは優しく頬を撫で、背の高い自分に合わせて、ゆっくりとアヤの顎を上げる。

 右手の親指でアヤの唇に触れる。

 アヤは次にどうされるのか予想がついて、目を閉じたままじっと動かずにいた。


 サイはアヤを見つめながらゆっくり顔を近づけていった。

 おでことおでこをくっつけて、アヤの表情を読む。

 きっと、キスを期待しているはずだ。分かっている。

 けれど、アヤの反応があまりにも可愛らしくて、ちょっと焦らしたくなる。

 少し時間を置いて見ていると、アヤの唇が一瞬小さく動いた。まるで、『早くして。』と、言っているように。


 サイは、色付きリップで微かにピンク色に染まったその唇に、優しく触れるだけのキスをした。

 アヤの体が、ピクッと反応する。サイはそのまま大人なキスをして、もっとアヤの反応を見たかった。

 もう一度、アヤの唇に触れようとした時、


「お客様〜。いかがですかぁ?」


と、カーテンの向こうから店員の間の抜けた声が聞こえてきた。


 サイは一瞬、フッとと笑って、


 「は~い。これ、いただきま~す!」


と、明るく答えた。


 アヤが目を開けてみると、目の前にサイのふんわりとした笑顔。

 この状況を少し残念に思いながら、それでもアヤは『この笑顔はもう自分のものだ』と、今までにないくらい傲慢に自分の意志を持った。


 思えば、いつからだろう。本気で何かを欲しいと思ったことなど、もうずっと前からなかった気がする。


 サイがクスクス笑うものだから、アヤもつられて笑った。


 (いいんだ。自分がこんな風に、自分の気持ちに正直になっても)


 そうだ、アヤは今の今までこんな『自由』を感じたことがなかった。

 いつも何かに遮られていて、どの方向にも進むことができなかったのだ。


 それは、いったいなぜだったのか?


 しかし、もうそんなことはどうでもよかった。今、目の前にある、『恋』というものの魔法によってでも構わない。自分は、もっともっと自由に生きてみたい。何にも捕らわれず、もっともっと前に出たい。

 それを叶えてくれるのは、目の前にいる。この、美しい人。


 アヤはいるかどうかもわからない、『神』にも感謝したい気持ちでいっぱいだった。

 

 「神様っている?」

 

 「はい?」


 こんな状況で何を?と、半分呆れながらサイがアヤの顔を見る。


 「ありがとうって言いたい」


 頭の中で考えていたことの続きがつい、言葉になって出てしまう。それくらい人とのコミュニケーションに不器用なアヤ。

 サイは普段の優等生なアヤと、今この瞬間のどうしようもなく子供っぽいアヤとのギャップが可笑しくて、更衣室の中でケラケラと声を立てて笑った。 



       💧 💧 💧



 三日後、クラスの仲間や仲のいいメンバーが集まって海水浴に出かけた。

 女子が六人、男子が七人。なぜいるのかわからないが生田までが来ていた。どうやらクラスの男子と仲がいいらしい。

 

 空は、『THE 夏休み』というくらいスカッと晴れて、雲一つない。

 砂浜は朝早くから、たくさんの人々が場所取りに興じていて、既にたくさんの色のパラソルやビーチテントで覆われていた。

 

 さすが高校男子!

 我がグループも、彼らにどんな目的があるのかは知らないが、朝もとんでもなく早い時間から場所取りをしていたらしく、ベストポジションを確保して、あとからやってくる女子を出迎えてくれていた。

 女子はまるでお姫様気分。麻衣が気を良くして、


 「ごくろうさま~。ん~、苦しゅうない」


などと、ふざけている。


 荷物を置いて、近くの海の家で着替えを済ませた女子が戻ってくると、男子が一斉に大きな歓声を上げる。


 女子の水着姿にワイワイ騒ぐ男子。

 多分視線の先は皆、サイだ。


 グループの男子だけではない。周りにいる、おおよそ見える範囲の人がサイの容姿の美しさにくぎ付けになった。

 美しかった。

 アヤと一緒に買いに行った水着は、スタイルのいい人でしか着こなせない難しいデザインでもあったが、それを見事に超越した、まるでマネキンのような肢体は、その場にいたほとんどの男性の視線を瞬く間に奪った。


 皆の視線がサイに集まる中、ただ一人だけ全く違う輝きに目を奪われている者がいた。


 生田だ。


 白くて滑らかな肌、華奢だが可憐で純粋で、穢れのない天使のような姿に、生田はアヤから目を離すことができなかった。

 可愛らしいフリルの付いた薄いラベンダー色の水着は、アヤのいいところを存分に表現できていた。

 

 それだけの熱い視線を、どんなに色恋事に疎いアヤでも気づかないはずはなかった。

 一瞬生田と目が合って、急いで視線を外すアヤだった。

 

 いつもはミディアムの髪をそのまま下ろしているアヤだが、今日はサイが朝から家に来て、ルーズな編み込みをしてくれた。後れ毛を少し出してニつに下げた編み込みは、いい意味でアヤの幼さと、水着の大人っぽさのバランスを上手に取ってくれていた。


 一方サイは長いストレートの髪の前髪だけを横に編み込んで、大人すぎるその容姿にポップな印象を与えるようにコーディネイト。

 その上大きめのイヤリングで若さをアピール。

 サイのセンスはホントに良い。


 麻衣や他の女子生徒がサイを慕うのも、そんなサイの一面を買っているということもあるのだろう。

 サイがいるだけで、そのグループ全体が皆の注目を浴びていた。

 

 「さて、行こうか」


 サイが、ビーチサンダルを無造作に脱ぎすててアヤの手を取ると、波打ち際まで風を切るように走っていく。


 他の皆もつられて、追いかける。

 太陽に照らされ続けた砂は、素足にはかなり熱い。

 後から慌てて来る男子が、


 「あちっ!あちっ!」


と、小躍りする様にリアクションするのを、皆で笑い飛ばしながら走る。

 アヤは、まるで『青春』を絵に描いたようなこの状況に、今まで感じたことのない喜びを覚えた。

 

 水際まで来ると、サイはある欲求に駆られた。


 (このまま、波に飲み込まれてしまいたい。アヤの手を握りしめたまま……)

 

 ……ッと、立ち止ってアヤの顔を見る。可愛らしい笑顔がサイを見つめていた。

  

 「泳げる?」

 

 そう聞くと、大きく頷くアヤ。

 サイはニッコリ笑って、アヤの手を掴んだまま、白く泡立つ波の中に足を踏み入れた。


 水の中はホントに心地良い。


 アヤは、水中に入ることが本当にうれしかった。

 雨の降る中、自室で幸せな時間を過ごす時と同じ感覚を味わえるからだ。

 ジャブジャブと浅瀬を駆け抜け、どんどん深いところへ足を進める。手を引いてるサイが後ろを振り返りながら笑う。

 

(……なんて幸せなんだろう。あれ?前に見た気がする)


 アヤの全てが水中に沈んだ時、頭の中にいくつもの場面の断片が、スライド写真のように映し出された。


 (え?)


 ブクブクと無数の泡が見える。


 それは、自分が生きているという証。息をしているということ。この世に生があるということ。


 ……そう、あの時、あの瞬間、死んでしまおうと思った。いや、死ねることを良かったと思ったのだ。


 (なぜ?)

 

   

           つづく

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