💧 第7話 雫 💧
アヤは夢を見た。
水中で上を見上げていると、太陽がキラキラと水面に光って、波紋が美しい。
人がいるのだが、逆光で影になって暗く見える。
よく見ると、水中に泳ぐその人物には足ではなく、魚の尾ひれがついている。
……人魚?
人魚と思しきその人影はいつも、彩にこう語りかける。
「思い出して……」
いつもなら『忘れないで』というのだが、今日のセリフは違った。
いったい何を思い出せというのか?自分は何か忘れているのか?
そして、いつもならここで目が覚めるのに……。
「……おきて。大丈夫?ねぇ、起きて」
誰の声だろう?
ポタッ……ポタッ……と、アヤの顔に冷たい雫が落ちる。
うっすら目を開くと、誰かが上から見下ろしているが逆光で良く見えない。
しかし、この声の主は幼い女の子のようだ。
長い髪の毛先から、アヤの顔の上にポタポタと水が滴っている。
どうにも瞼が重くて、アヤはそのままゆっくり目を閉じた。
チリンッと、どこかで聞き覚えのある音がした。
💧 💧 💧
チリンッ
目が覚めるとアヤの布団の上に猫がいた。最近になってアヤの母親が飼いだした真っ白な猫は、首に小さな鈴をつけていた。
「なんだ、ミイか」
なぜか、アヤのベッドがお気に入りでよく入り込んでは昼寝をしている。
今日も自分の寝床気取りで、ちゃっかりと丸くなって眠ってしまった。
夏休みに入ってからのこの二週間、アヤは塾の夏期講習に通っていた。そして、今日から少しの間短い夏休みだ。
サイやグループのメンバー達もそれぞれ塾に通ったり、そうでない者も気を遣ってくれたりで、ほとんど連絡を取り合ってはいなかった。
アヤはサイにさえも、時々来るLI◯Eに返信するくらいで、電話で話したりすることもしなかった。
それは、自分自身の心の安定を図るためでもあった。
勉強の大事なこの時期にサイに会ったりすれば、きっと気持ちは揺らぐだろう。
それでなくても、何かにつけてサイのことが頭をよぎるのだ。夜ベッドに入る時間は特にだ。
寝てしまっただろうか、電話してしまおうか、LI◯Eでもいいおしゃべりしたい。
サイのふんわりとした笑顔と笑い声が、延々と頭の中を巡って、そのうちようやく眠りにつく。
そんな毎日を過ごしてきた。
しばらく外の景色を楽しむ余裕もなかったが、久しぶりの何もない一日。カーテンを勢いよく開けると、窓の外のまぶしく輝く太陽に思わず目をつむった。
空は抜けるように澄んで青かった。
アヤは、さっき見た夢のことなどすっかり忘れてしまった様子で、クローゼットを開け、今日は何を着ようかとハンガーに掛かった服を端から順に動かした。
その中から白いノースリーブのワンピースを選んで袖を通すと、鏡の前に立って自分の姿を見ながら、気持ちのいい今日の一日を満喫しようと決めた。
着替えをして自室から出ると、台所からいい匂いがしてきた。
「あら、おはよ。今日はてっきりもっとゆっくり起きてくるのかと思ってた」
母親である
時計を見ると、それでも八時半を回っている。
朝食を摂り、のんびりと居間のソファでテレビを見ていると、最近取り替えたばかりのドアチャイムがコンビニの入店音と同じ音階を鳴らしたものだから、アヤは小さな声で、
「いらっしゃいませ〜」
と、ふざけて言った。
以前の自分ならば、一人で居たとしても、ちょっとふざけてみたりする、なんてことは万が一にもなかった。
全てはサイの存在によるところなのだ、とこんな些細なことで思い知る。
「は〜い」
ドアの外まで聞こえやしないのに、一生懸命答える理恵に吹き出したりして。
何か、どんなことも楽しく感じる。
アヤはどうしようもなく、表情が緩むのを感じていた。
……これは、この感情は。きっと、恋だ。
「アヤ〜、お友達よ〜」
ともだち?……ともだち?!
自分を訪ねて来てくれる友達なんて、サイしかいない!
アヤはぼんやり座っていたソファから勢いよく立ち上がると、バタバタと慌てながら玄関へ急いだ。
理恵が、玄関から戻ってきてアヤとすれ違いざまに、
「アヤ〜、なかなかやるじゃない」
と、言った。
サイを見てそう言ったのなら、今までの自分には確かにこんな素敵な友達はいなかった。そう思う。
アヤは口元が緩むのを、抑えることが出来なかった。
玄関のドアを開ければ、サイのふんわりと優しい笑顔がそこにあるはずだ。
ドアノブに手を掛けて、外側へ押しやる。
しかし、そこにいたのはサイではなかった。
足元はサイズの大きなスニーカー。ゆっくりその靴の持ち主を見上げると、サイよりもはるかに高い身長の男子。
「生田……くん?」
「お、おはよ」
なぜ?いったい何の用があるというのか?
「水嶋、今から予定ある?ちょっと話があるんだけど」
話って?
理恵が、当然家に上がるのだろうと台所でバタバタしているのが気配でわかる。
玄関で生田を待たせたまま、理恵に出かけてくることを伝えると、
「え~っ!上がらないのぉ?」
と、限りなく残念そうに用意しかけた洋菓子の皿をかたずけ始めた。
とりあえず、スマホと財布だけを持って外へ出る。
アヤの家から大通りへ出て、最初の角のあるカフェに入った。できれば誰にも見られたくない。アヤは自然と店内の一番隅の、窓から遠く離れた席に座った。
アヤは内心、心臓が飛び出そうなほどドキドキしていたが、なるべくそう見えないように必死に平静を装った。
様子を伺おうと、俯いていたアヤがチラッと生田を見やると、だいぶソワソワしていて落ち着きがない。
多分、話というのはサイのことだろう。サイとのことを取り持ってほしいということなんだろうと思い、アヤはどう答えたらいいのか必死に考えを巡らせていた。
生田は、しばらくモジモジしながら視線をあちこちに泳がせていたかと思うと、突然意を決したように、
「あの!」
と、切り出した。
「望月から、なんか言われた?」
「え?なんかって?」
「やっぱり、何にも聞いてないか……。おれ、望月に頼んだんだ。もし、水嶋に付き合ってるやつとかいなかったら、俺とのこと考えてほしいって、伝えてくれないかって」
(それは……、どういう?つまり、それは)
「俺、水嶋が好きなんだ。実は一年の頃からずっと気になってて……でも、その頃はまだ部活でどうにか成績上げたくて必死で、恋愛とかまで考えられなくてさ。部活動最後までやり遂げて、その時まで好きだったら告白しようと思ってて」
アヤはあまりに予想外な話に、すっかり目が点になっていた。
「……あの、水嶋?」
「え?……あっ、ごめんなさい。えと、私」
「そうだよな、突然でごめんな。望月にも言われたんだ。水嶋はその辺のチャラチャラした女子とは違うから、きっと二つ返事で『はい。』とは言わないって。それに、受験の妨げになるのも困るってさ。あいつ、お前の母親みたいだな」
(サイ、そんなこと考えていたんだ)
「俺さ、望月とは同じ小学校でさ。ずっと前から知ってるんだよ」
(え?)
……ポトンッ。
雫が一粒、アヤの心に音を立てて落ちた気がした。何もなかった水面に、波紋が広がるのを感じる。
いったい、サイはいくつ自分に秘密を隠しているのだろう。
アヤは、生田の話のその先を聞くのが恐かった。
つづく
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