第8話
「まだ起きているのか」
「…………いえもう寝る所です」
静かに暗くなった部屋に入ってきたフェリクスは軽い衣擦れの音をさせながら近づいてくる。ベッドが撓んでそこにフェリクスがいることは理解できた、まさか来るとは思っていなかったがよくよく考えればここはフェリクスの寝室でフェリクスのベッドなのだから当たり前の事で──そもそも何故フェリクスはあんな風に思い違いをさせておくのだろう?借金の事を知って自分のハウスメイドが恥だと思い隠そうとしているのかもしれない
それとも借金を残して逃亡でもするのかと思われているのかもしれない
「何故そんな表情をしている………」
いきなり毛布を取り上げられ、フェリクスの美しい顔が目の前に迫り思わず慌てて身体を起こせば見事にフェリクスの額に頭を打ち付けてしまう、痛む頭をおさえて恐る恐る視線をあげれば見事予想は的中していたらしい、盛大に眉間にしわをよせてこちらを睨みつけているフェリクスにベッドの上で素早く平謝りする
「も、申し訳ございませんご主人様!ど、どうかお許しを……!」
「…………ピオニア」
「ほ、本当に悪気があってこうしているわけでは…」
両腕を掴まれ身体を揺さぶられれば、思わずフェリクスの瞳を見てしまう、次第に霞がかる思考に思わず目を瞑る、フェリクスらしくない悪態が耳に届いた直後には噛みつくような口づけを受けていた
「ご主人様!」
顔をそむけて激しく胸打つ心臓に手をあてるがすぐさまに頤を掴まれ視線をからみとられる、だめだと抗う思考はそこでぷつりと切れた
「………ピオニア」
「……フェリクス様?どうかされましたか…?」
「お前が眠れているか確認しにきただけだ──よく眠れ」
かくりと力が抜けた身体をベッドに戻すと毛布をかけてやる。どこから暗示が解けていたのか気になる所だが……ともかくもっと頻繁にかけなくてはならないようだ…。
ぶつけた頭が腫れていないか確認するとそっと部屋を後にし執務室へ向かう。
「これはこれは良い音がしましたが問題ありませんか?」
「ない。」
机に置かれた書類を掴み確認していく、細かく書かれた文字をあっという間に読み進めて行く
「まだ二人の間に生じた契約に関する証拠は見つけれておりません」
「ジルド…ピオニアの伯父は遺産目当てに実の兄を殺害したわけか。そしてそれを盾に今度はローウェルはジルドを揺する
だがジルドにはローウェルに支払う金がない…」
「何故でしょう、男子継承である爵位を確かにジルドは持っています」
「遺産は隠されたままになっているからだろう、見ろ。ジルドは城の改装を何度も行っているそれも二年間の間に14回だ。城のどこかに遺言書か何か隠されているのかもしれないな」
「それで領地のいくつかを売っているのですね…ではローウェルは只の敗者ということでしょうか」
「もちろん殺人者出愚か者である事には違いないが、問題は何故ピオニアを引き取ったかという所だまさか──ピオニアが何か遺産に関する事を本人も預かり知らぬ所で託されているとしたら」
「もしピオニアが遺産の事を何か知っているのであれば、娼館にはいかなかったと思いますが」
「ローウェルは二年待った。そして知らないと確信したからこそ放逐したに違いないな」
いよいよ首の回らなくなったローウェルはリリーにほれ込んだノエルを使い私に接触しようと考えた、がここで偶然にも私に引き取られたピオニアに出会ってしまう……そしてノエルはリリーを連れ去ってしまっている。混乱しきったローウェルがどう出るか…。
金の無心はすでに失敗している、頼みの綱であるジルドからは金が引き出せない、娘をノエルに嫁がせ持参金をもらうという手もなくなった。となれば自ずと遺産のキーを握るピオニアを狙うはず
「リオン、イザベルを伴いピオニアの城を徹底的に調べろ、何か遺産に関する手がかりがあるかもしれない。誰より先に手に入れピオニアに相続させなければ」
「かしこまりました──ただ胸騒ぎがいたしますお気を付け下さい」
「わかっている老齢のヴァンパイアの心配など無用だ」
眠ることも疲れも知らないヴァンパイアが駆けても、イーヴァ領からガルデン領まで20日はかかるだろう、城の警備を固めるために今まで遠巻きに許していた同士等をさりげなく警備につかせておく必要がある。
穏やかな時はあっと言う間に過ぎて行く、特に“人間”の時間は砂時計のようにサラサラと流れて行ってしまう。秒針が一つ進むたびに焦燥感は募っていく……ひょっとしたらこの瞬間にも突然の病に倒れるかもしれない。
明日は転んだ拍子に死んでしまうかもしれない。
一時として離れがたい、いっそヴァンパイアにしてしまえば──愛は失われるかもしれないがピオニアを失う事はない、愛情が家族愛、いや仲間意識になったとしても失うよりはずっとましなように思えてくる。
何故、ヴァンパイアは血の掟に縛られなければならないのか…愛が故に“人間”を同士にした者たちの愛は失われてしまうのか……
「フェリクス様また難しい顔をなさっていますね、そんなに難しい書なのですか?」
「………いや……確かに難しいな」
「完璧な方にも難しい事があるのですね」
外は珍しく吹雪いているため今日はほとんどを書庫で過ごしている。螺旋階段が気にいっているのか座り込んで本をめくるピオニアは灰銀色の髪はそのままにサイドだけをピンで留め、淡い檸檬色のエンパイアドレスを纏っている頭のてっぺんからパフスリーヴの肩にかけて厚いショールを被っている
「そこは冷えるだろうこちらへ降りるといい」
「…私は大丈夫です、お気にせずにフェリクス様も読書を楽しんでください」
「お前に風邪でもひかれては困る」
やっと本から顔をあげたピオニアは螺旋階段をゆっくりと降りるとソファへ落ち着く少し距離があるソファを選んだのが気に食わないが、あまり近寄るのもよくないと思いなおす。
リオンとイザベラが発ってから23日目正確には559時間と56分24秒だが…こちらもローウェルとジルドの取引に関する物的証拠を見つけるために網をはってはいるがまだ引っ掛かる気配はない。
ひょっとしたら口約束だけで取引を交わしたかと思うが……もしそうであればローウェルの脅しにジルドが領地を売り払ってまで金を支払う事等ないはずだ。
必ず何かある
それを見つけねばならない。
ピオニアの荷を取り払い、あの輝かしい笑顔を取り戻すために。
読みもしていない書物に降りかかる自分の髪をうっとおしげに耳にかけるとふいにピオニアが立ちあがり、フェリクスの背後に回る
「じっとしていてください、今日はまとめていらっしゃらないのですね」
「ああ」
「これで少しはましになりましたか?」
「ああ」
自分のピンを使いサイドの髪を留めたピオニアがいたずらに成功したかのように笑う
「綺麗ですよ、きっとどんな男性の心も射止めてしまわれるかもしれませんね」
「………男に興味が沸いた事はない」
「フェリクス様冗談です、でも綺麗なのは認めて下さいね」
反論しようとしたその時、敷地内に感じた事のある気配を察知する、きっとこの事は屋敷で警護にあたる全てのヴァンパイアが感じたはずだ。ピオニアの耳には聞こえないが一斉に動き出している
「戻ってきたかノエル」
「え?」
「いや来客との約束の時間がきただけだ、ピオニアお前は部屋に戻るように」
「……はい」
先に退出させ、ピオニアの足音を探りながらさらにその背後を護るヴァンパイアの気配を追う。部屋まで入ったあたりで丁度、書庫の二つ扉が開かれる
「やあ久し振りだな、我が友よ」
「…………」
「なんだ挨拶もなしか?──そうか怒って居るんだろう?僕が勝手をしてリリーを連れ去った事に」
両手を大仰に広げて話す姿は舞踏会で見た最後のままだ。
「誰を同士にするかに関して言えば私の許可などいらないだろう。我々は自由の身だ」
「友としてお前の忠告に従うべきだったと言ってもか?」
「そうだ」
やれやれと首を振ったノエルはフェリクスの前に立つとどこか上の空でシルクハットを弄る
「それでリリーはどうした?」
「もちろん愛を交わしたさ」
急に部屋に戻れと言ったフェリクスに素直に従ったのは、ノエルの名前が出たからで舞踏会の夜から姿をけしたその人が突然訪問すると聞けばさすがに鈍感なピオニアも不穏な何かを感じ取ることが出来る。ピオニアに掛けられた暗示は昼にかわしたそれで効果をなくしていたが、素のままでどうしてもフェリクスの側に居たかったし後に痛みを伴うとしても思い出がほしかったから暗示にかかっている振りをしていた
騙してしまってすみません……
心の中で謝ると、室内に響く細い風音にどこか窓があいてしまっているのかもしれないとカーテンを開ける
「窓じゃないみたい……」
バルコニーのガラス扉がほんのわずかに開いており、どうやらそこから隙間風が吹いているようだきっちりと締め切りカーテンをタッセルで纏める。
「ピオニア様、お変わりありませんか?」
廊下から声をかけてきてくれたのはメアリで一つ頷いて
「大丈夫です、少しバルコニーの扉があいていて隙間風があっただけですから」
「……そうですか、もし何かあればお呼びくださいね」
「ありがとう」
部屋の扉を締め切られると、ピオニアは最近また再開し始めた刺繍の続きをするために作業机に向かう、引き出しの中にはやりかけのハンカチーフに数種類の糸とピンクッションに刺されたままの針を取り出しソファに向かおうとしてぎくりと身体を揺らす。
「ごきげんようピオニア」
居るはずのない人物に思わず手にしていた物を落としてしまうが毛足の長い絨毯は物音をかき消してしまう。
「……なぜ……」
「しっ……そう怯えないで頂戴ピオニア、もう以前の私ではなくなったのだから」
妖しげに笑う口元に人差し指を押し当てて小首をかしげたリリーは間をおかずにピオニアの腕を掴むとソファに座らせる
「もう知っているのでしょう?ノエルやフェリクスがヴァンパイアだって……もっとも私が知ったのは舞踏会の夜だったけれどもね…」
薄々感じてはいたけれどもノエルまでもがそうだとは思っていなかったピオニアは内心驚いていた。テーブルの向こうカウチに優雅に腰を下ろしたリリーは
「実は私もヴァンパイアになってしまったの……ノエルと“愛”を交わしたから。
でも身体の“愛”ではないのよ…そんなふしだらな真似はいくら何でもしないわ」
「“愛”?」
「“愛”を言霊に乗せて誓いあうの、もちろんノエルの事を愛していたからそうしたの後悔はしていないわ、けれどもこうしてヴァンパイアになってからどうしても自分のしてきた事が許せなくて…ピオニアに謝りたかったの許してくれる?」
許す?あの二年間のひどい仕打ちの事を言っているのなら今思い出すだけでも背筋に冷たい汗が流れるほどに植えつけられたそれはひどいトラウマになってしまっている。
けれどもあのリリーがこうして謝るなんて天地がひっくり返りでもしない限りあり得ない事なのだ
ヴァンパイアは皆総じて優しい、リリーもそうなったことで考えがかわったのかもしれない…
「ごめんなさい、急にこんなことを言っても困ってしまうわよねいいのよ……
ねぇ…貴方こうしてフェリクスの寝室にいるということは、彼と愛し合っているの?」
「えっ……?」
「もし、そうなら───決してヴァンパイアにはならないで、ヴァンパイア同士は愛を感じないの……哀しいけれど私も徐々にノエルを愛する気持ちが消えて来ているからきっとそのうち彼に対する愛情は親愛になってしまうに違いないの」
愛を交わすと、愛が失われる
「まぁ……泣かないで頂戴、大丈夫よ“愛”を交わさなければ永遠彼を愛し続ける事が出来るんですもの。
ああ、そうだったわ私、今日この日のために貴方にお土産をもってきたのよ」
思いだした何かを慌てて様子で紙包みから取り出したリリーはテーブルにそれをそっと乗せる
ワインボトルには金のラベルが張り付けられ赤いリボンが結ばれている
「もしよければ二人の再会をお祝いしてくれないかしら?」
「あの…」
「大丈夫ちゃんと、ほらグラスも用意してきてあるから」
強引なのは何も変わっていないのか、あっという間にグラスにワインを注ぐと片方を差し出してくる、まだ彼女を許せる気分でもましてやヴァンパイアになったという話も信じがたいけれども誰にも気付かれずに部屋に現れた事や纏った雰囲気が違う事が真実味を感じさせる。これから先の事を考えればリリーと仲たがいをしているよりはいいかもしれない
リリーが父親を説得してくれたなら地道ではあるがピオニア自身の手で借金を返していけるかもしれない…
そっとワイングラスを受け取り、お互いの目をみながら同時に中身を飲み干す
ぐっと喉に熱い液体が流れ思わずむせてしまう、リリーは頬笑みながらそれを見守ると
「そろそろ行かなくては……ピオニアさようなら」
「…っリリー!?」
突風が部屋を荒らしたかと思うとすでにリリーの姿はそこになくバルコニーの扉ががたがたと震えていた。
恍惚とした笑みをたたえたノエルをねめつける。
「“愛”をかわしたならもう気が済んだだろう」
「ああ、残念ながらきれいさっぱりと消えてしまったよ…喪失感は拭えない
あんなにも愛していたリリーはすでに僕の中から消えてしまった……」
「そうなると知っていたはずだ」
「実際に体験するのと聞くのはおおいな違いがある」
「では達成感だけが残ったというわけか肝心のリリーはどこにいる」
立ちあがりノエルの胸倉を掴みあげる、リリーがしてきた事を知っている。同族を殺す事は出来ないが罪を放っておくつもりはない。
「そんなに心配しないでくれ、彼女から一通りの話は聞いたさ──リリーも十分反省していたよよほどひどい事をしてきてしまったと嘆くから僕は」
「…っリリー!?」
二階からあがったピオニアの声にかさなるように聞こえた物音にフェリクスの全身の毛が逆立つ一息で寝室に駆けこむがすでにそこには喉を押さえるピオニアしかおらずリリーの気配はまるでない
「ピオニア!」
「…いま、ここにリリーが……でも消えてしまって」
「何かされたのか!?」
「い、いいえ何も……ただ謝りに来たと言っていました」
冷え込んだ肺から息を吐き出すとピオニアの身体を抱きこむ、懸念していた事は起きなかった──ヴァンパイアになったことで思考がかわったのか……ともかくこれで一つ心配事が消えたはずだ。
「……ははっ…なんだ“愛”したのか“人間”を──」
囁くように笑ったノエルの声が遠くから聞こえそのまま気配が消えていくのを静かに待った。
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