第6話


ちくりとした胸の痛みは隠してほほ笑むと必要のなくなったワゴンを引いてキッチンへ戻る、時間外なので誰もいないが残ってしまったレモネードを水に流して綺麗に洗って置く自分の気持ちもこんなふうに流せてしまえたらどんなに楽だろう、最後に残ったレモンが次いでボタリとシンクに落ちるとそれをクズ入れに放りこんでしまう。


「私の結末みたいね」


レモンを捨てる時は誰だって躊躇もしないしためらわない、好きだとばれてしまったらきっと私もこのレモンと同じ運命を辿る事になる、あの藍色の目に軽蔑されたらときっと耐えられない



三日後の昼からベルフォートは騒がしくなっていた、イザベラの髪を巧みに編みこむとルビーの飾りを差し込んでいく、この日の為に用意された深紅のベルベットのドレスは裾が大きく広がるさまは大輪の薔薇を連想させる。化粧を施したイザベラはこの世の女性かと思うほど美しい


「すごく綺麗です、きっと誰もが振り返ってしまいますね…」

「素直に受け取るわね、ありがとうピオニア──あなたも一緒にきたらよかったのに…フェリクス様なら二人レディを同伴させてもおかしくないのよ?」

「め、めっそうもない!私にそんな教養ありませんのでそれに付き添えるだけで十分です!」


話しながら玄関ホールまで辿りつくと、すでに準備を整えたフェリクスがこちらに視線を投げると、またいつものように眉根をよせるそれに心が痛む──財産をただ食いつぶす女だものそうなって当然なのよね…


「やあイザベラ今宵は特に美しいね」

「まぁノエル…あなたも素敵よ」


フェリクスの傍らに居たノエルがまったく視界に入って居なかった事に思わず顔が熱くなってしまう、これではフェリクスに夢中なのだと言っているようなものだ


「お三方、馬車の準備が整いましたのでご乗車ください」

「ではさっそく行こうか」

「はい」


フェリクスが差し出した腕に手を添えたイザベラが歩く姿は、その昔ずっと憧れていたお姫様の様、隣を歩くフェリクスはさしずめ王子様で後ろをついて歩くだけのメイドはその他

ノエルは自分の乗ってきた馬車に乗り込み、フェリクスに用意された馬車はなんと四頭仕立ての黒馬車で大きく金の家紋がのったそれは素晴らしく豪華だ、それと合わせのように漆黒の燕尾服のリオンは金の髪を撫でつけている。ピオニアもそれにならって漆黒のメイド服に黒のカチューシャに白の手袋をしている。今宵ばかりは馬の舵を取るのは他の人の役目らしく、イザベラの前座席にピオニアがフェリクスの前にはリオンが座る事になっている。

王宮で開催される舞踏会に呼ばれるのは大変名誉な事で、門から入り口までずらりと並んだ立派な馬車は圧巻の一言に尽きる、長時間かけてやっと停泊すればすでに会場からは優雅な音楽が漏れ聞こえている、先にリオンとピオニアが降り、両開きのドアの端に立ち二人を見送る


「じゃぁ行ってくるわねピオニア、今日は色んな方がきているから悪い狼につかまらないようにね」


ぱちりとウインクをされてなんだかずっと子供になってしまったような錯覚を覚える


「…お姉様がいらっしゃったらこんな風だったのかしら?」


ごく小さく呟いたはずなのに、イザベラが急ぎ足で踵を返してきたかとおもうとぎゅとピオニアを抱きしめてくる


「そう思ってくれてるならとても嬉しいわ!いいわこれよりピオニアあなたはわたしの姉妹よ、ね?」

「い、イザベラさん?」


目をきらきらとさせたイザベラに反論できるはずもないしそう言ってくれた事に足が浮足立ち気持ちになる、いや実際には少し足が浮いていたかもしれないけど…

ふやけた顔を引き締めて送り出せばリオンにイザベラが姉ならさしあたってわたしは兄というところですねと言われさらにピオニアの顔はだらしなくなった事だろう

後方の馬車にせっつかれたため、馬車が待機場所に移動してしまうとリオンとピオニアは風よけのルーフに身を寄ようと歩き出す、そこで主人が出てくるのを待つわけだが舞踏会は明け方まで行われる事が多いため休憩用の椅子が設けられている。何かつまむ物を持ってきますと言ったリオンは暗がりに消えてしまった


「あら……ピオニアじゃなくって?」

「え?」

「やっぱりそうだわ!ねぇお父様見て頂戴ピオニアよ──少し太って醜くなったんじゃなくって?」

「貴様、こんなところで何をしている!我々の邪魔でもしにきたのか」


若木色ドレスにふんだんにあしらわれたオレンジの薔薇飾り、首元、耳飾りにはダイアモンドが恐ろしく光っている扇で隠した唇が紡ぐのは決まってピオニアを罵る言葉で、そんな事を公然とやってのけるのはリリーしかいない、恐る恐る振り向くとそのリリーをエスコートするのはローウェル男爵…黒の燕尾服は神経質な彼をさらに際立たせている


「答えないか!」


一歩踏み出したその足に勝手に身体が緊張してしまう


「……勝手にここにいるわけではありませんローウェル男爵閣下…私はベルフォート伯爵様の付き添いメイドとしてここにいます」


そうよ、しっかりしなきゃ…フェリクス様のメイドとして侮られてはいけないのだから!

背筋を伸ばししっかりとした口調で答えるとローウェルはベルフォートと聞いて一瞬たじろいではいたがすぐに顔を歪ませると


「ふん、なにを偉そうに……そうだ…ベルフォート伯爵にお前の借金を肩代わりしてもらおうか」

「!?」

「そうよ!それは名案だわお父様、だってピオニアには返すあてなんてないでしょうし…それにあなた噂になっているわよ、夜の手管が素晴らしいのですってね」

「な、なにを……」

「そうなのか……まったくなんてあばずれだ…」

「やだ、お父様ってば…だって伯爵様がこんな何にもない娘を付添人だなんてそうとしか思えませんもの」


どくどくと打つ心臓が痛む今この人達は何と言った?


「やあリリー!こんな所に居たのかい?早く中へ…ああローウェル男爵閣下も今夜は楽しみましょう、さあ!」

「ノエル様遅れて申し訳ありません、私喉がかわいてしまったわ…」


陽気に話しかけてきたノエルはピオニアの事等まったく目にはいっていなかったようでリリーの細腰を抱くとさっさと会場の中へ紛れて行ってしまう


「二時間たったらここへ来い。来なければお前の借金をベルフォート伯爵に支払ってもらう事になる、いいな!」


名刺の裏に書きなぐったものを無理やり手に握らせると、ピオニアの耳に毒を流し込むとローウェルは娘の後を追って行く、呆然とそれを見送ったピオニアの心はすでに満身創痍でリオンが進めてくれる軽食や飲み物は砂のような味がした。


「リオン様…今は何時頃でしょうか?」

「今は、9時手前ですね─どうかしましたか?」

「いえ…少し化粧室に行ってまいります」

「いいですよ人が多いですから気をつけなさい」

「…はい」


席を立つと、ポケットに隠していたカードを取り出す、ぐしゃりとねじ曲がったそこには簡潔に中庭への道のりが書きなぐられている。中庭──そこは未婚の女性が入る場所としては適切ではない場所とされている、物陰に隠れていかがわしい行為にふける人達がいるせいだ……それでも行かなければベルフォートに…フェリクスに迷惑をかけてしまう、これ以上は絶対に駄目……


といっても中庭は広大で生垣は雪こそ落とされている物のまるで迷路のような作りに思わず溜息がでてしまう


「やっときたか…騒ぐな愚か者が…!」


後ろから口を押さえつけられ地面に転がされる、片手で口を押さえながらもう片方の手で首を押さえつけられ苦しさのあまりに足をばたつかせても、ローウェルは馬乗りになった体勢でびくともしない


「話は簡単だ、ベルフォートになんとしてもお前の借金を肩代わりさせるのだ…」


そんなこと出来ない!!首を横に振ると頭に衝撃が走った振りぬいた手が拳に握られていた所を見ると殴られたのだとわかる


「簡単だ、お前の身体で誘惑すればいい、それかみっともなく泣きすがってみるのも一手だ、この借用書にサインさせろっ」

「……っそんなこと出来ない…!」


今度は頬に熱を感じた、そうかと思うと今度は反対の頬が打たれる


「このあばずれが…!」


髪の毛を掴みあげしたたかに地面に後頭部を打ち付けるとローウェルは逃げようともがくピオニアの腹部に片膝を乗せ体重をかけてくる


「っああ!」

ミシミシと骨が軋み、もういよいよ折れると覚悟したときふいに大きな影が視界に入った

満月を背負ったその影はゆらりと揺れたかと思うとローウェルの頭を身体ごと持ち上げてしまう、眉間に食い込んだ指の痛みに呻くローウェルを茂みに投げ捨てると、静かにピオニアの前に膝をついた


なんとか起きあがると、急いで乱れたスカートを直し髪を整え鉄錆の味がする口元を手で隠すそれでも足りないような気がして茂みに身を押しこむ

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