第4話

いつのまにか螺旋階段に座り込んで夢中に読みふけっていたピオニアにかけられた声に驚いて手から落ちそうになった本を慌てて掴む、屋敷の主人でもあるフェリクスはゆったりしたシャツにズボンだけという軽装にローヴを羽織って一階の本棚から何か探しているらしく細い指で背表紙をなぞっている、昨日と変わらず金糸雀の髪は緩やかに纏め背中に流しちらりとこちらを一瞥しただけで


「どうだ逃げ出したくなっただろう」


それはどういう意味だろう?今ここから逃げ出したっくなったかということなのかしら?


「……この屋敷は広大だ、掃除した傍から掃除せねばならない箇所が出てくる」

「いえ、とんでもございません…とてもよくして頂いております…リオン様にも優しく接していただいておりますし──」

「そうかではいい」

「は、はい」


目的の本を片手に下げたフェリクスはそれだけ言うと言ってしまった、ピオニアは肩に入っていた力を抜くとそっと溜息を零すやはりフェリクスといるとざわざわとしてしまう胸に本を当てる。



自室に戻るなり本を机に投げると、カウチへ横になると眠気もこない瞼を閉じる。

『リオン様にも優しく──』

ピオニアがリオンの名を呼んだからと言ってどうだというわけもない、しかしリオンと話をしたのはたかだか昨日の夜の就寝のあいさつ程度だったはずだし、今日の朝には事務的な話ばかりではなかったか、よく聞こえる耳は時にいらないことまで聞こえてしまうのが欠点だ

リオンは金の髪に淡い水色の瞳をもつ外見的には25歳ほどのヴァンパイアで思慮深くフェリクスに仕えている。

ああいった男が好まれるのか、まるで自分とは対照的な………


「………ばかばかしい」


テーブルに置かれたままになっていたグラスの中身を一気にあおるとささやかな陶酔状態を楽しみ意識を閉ざした。




「フェリクス様─フェリクス様」

「……どうした?」

「ピオニアが外出さないました」

「…だからどうした仕事以外の時間はあの娘の自由だ」


カウチで体勢をかえ座面に顔をこすりつける、何年ぶりかの睡眠をむさぼっていたと言うのに起こすとは、しかも娘の外出ごときで


「そうですか…わたしの“人間”だったころの記憶では12時を過ぎてもどらない娘は大問題だったと。失礼いたしました」

「……12時?」

「ええ、正確には深夜2時でございますが」


むくりと身体をおこし、にこやかに立つリオンをひと睨みすればこてりと首を傾げて見せる腕に持っていたコートを見る限り今からピオニアを探しに行かせるつもりだったのだろう


「どこまで行ったんだ?」

「街の方へと向かったまでは見ておりましたが」

「ならそのうち帰ってくるだろう放っておけ…」

「そうですか、フェリクス様がそうおっしゃるなら、失礼いたします」


静けさを取り戻した部屋でしばらくじっとしていたが、もう陶酔はすっかりなくなっていることもあり図書室から持ち出した本を手に取るとソファに腰をおとす、かちこちとうるさい時計がやけに煩く聞こえる。


「……3時…」



「帰るのが遅れてしまったわ…」


そっと屋敷の裏口を抜けてもう施錠されているかもしれないドアノブをそっと回してみる

幸運なことに鍵はかかっていない事に胸をなでおろすと物音をさせないように自室に滑り込む、雪に濡れた外套をハンガーにかけると少し膨らんだポケットから今日稼いだお金を取り出す、銅貨3枚これでハンカチーフが4枚は買えそうな金額だ


「この調子でいけば、次のお休みには刺繍糸も針も買えそうだわ」


昼食時にコックからもらっておいた空いたジャム瓶に入れるとベッドの下へ置いて、寝間着に着替えるとベッドに潜り込む


「すっかり冷えちゃったみたい…寒い…」


指先をこすり合わせながらも疲労感にまかせて眠りについた


「糸に針?何をしようとしているんだ」


自室で耳を澄ませて聞き耳を立てていたフェリクスは眉間にしわを寄せて時計を睨んでいる、契約通りなら残り三時間もないうちに仕事がまっている、さっそく契約を反故するつもりなのだとしたらやはり、ある程度の金を渡し放逐すべきだ。

金を持って帰ってきた様子だとどうやら街で仕事でも見つけたらしい…まさかと思うが一瞬あの娼館がよぎる


「いや、まさかな」


こちらの思惑など知らぬ顔でピオニアは二時間後に起きると、キッチンで湯を沸かしポットに紅茶を用意すると蒸し器にティーカップを入れ温め、集まりだしたメイド達に紅茶をふるまうとさっそく掃除に取り掛かる、とても睡眠時間が2時間の人間とは思えない体力に驚いたが、それもいつまでもつやらともかく“人間”とは弱い


「フェリクス様、こちらが届いております」

「また招待状か」

「そのようでございます」


銀の器に乗せられたカードを開封していけば


「夜会、晩餐会、舞踏会…まったくくだらない。返事はいつもきまっているのに何故毎回送ってるのか信じられん」

「それは、もうフェリクス様と結婚を狙っている貴族はごまんといますから、どこかで接点をもちたいと思うのは当然かと」

「ばかばかしい。返事は追って書くからそこへ置いてくれ、あと娘が夜どこで何をしているのかつきとめたか?」

「ああ、それはもちろんです。娼館です」


用紙に置かれたままのペンが大きな染みを作っていく


「もうすでに一週間ですか…素晴らしい体力をお持ちのようですね

おや──」


机にいたはずの主が消えてかわりにペンがころころと床を転がっている


そのころ掃除用具を両手に提げてピオニアは茫然と目の前に立つ主を見上げていた。

ここに勤めてから一週間、顔をこうして突き合わせたのは、あの図書室が最後でなぜこんなに怒っているのかわからないけれど、確かに怒っている。

完璧に配置された口はきつく結ばれているし、目の瞳孔が大きく開いているし、何より眉間に寄った皺がそう語っているから


「私はふしだらな娘を屋敷に住まわす気はない。さっさと荷物をまとめて出て行くがいい」

「……ふしだら…?」

「娼館に出入りしていることを隠そうとしても無駄だ」

「そ、それは」

「お前に与えた服も靴も全て持っていくがいい」


いつもこうだ言いたい事を言った後、すぐにフェリクスは消えてしまう。こちらの話など聞く必要はないのだと背中が語っている。そうじゃないお金を稼いで借金を少しでも返したかったそれだけなのに…咄嗟に言い返せなかったのは娼館に通っているのは間違いないからだ…


「だって…あそこしかなかったのだもの…」


夜遅くまで営業している店は少ない、迷った末に戸を叩いたピオニアに驚いていたサラだが事情を話せば快く雇ってくれた、客に料理を提供する事もあるらしく皿洗いが丁度足りていなかったという事もあり明け方2時まで働けばそこそこいい給金がもらえていた

両手に持っていた掃除用具を片づけると、重たくなった足を自室へと向かわせれば部屋の前でリオンが待っていた


「あの…」

「大変心苦しくはありますが、フェリクス様が判断なさったことは覆りません。どうぞ荷物をまとめてください」

「……はい」


部屋をぐるりと見わたしてはっとする


「この鞄は…!」

「ピオニア、貴方のものでしょう?フェリクス様が拾っていらっしゃったらしいのですが渡す機会を逃されておいでのようでしたのでお持ちいたしました」

「そうなんですね…これは私の両親の形見なんですこうして戻ってくるなんて…どうぞお礼をお伝えください…」

「ええ確かにまかされました」


ベッドの下から取り出したジャム瓶をリオンに渡す


「これは?」

「どうぞご主人様にお渡しください、借金にはほど遠くたりませんが…今できる精一杯の返済です──今までお世話になりましたっ」


驚くリオンの腕に強引におしつけると深くお辞儀して部屋を飛び出す、本当ならメアリやイザベラにも挨拶したかったけど情けない顔を見られたくなかったしフェリクスが告げたようにさっさと出て行かねば泣いてしまいそうな予感がした。


「おやおや…そういうことでしたか。誤解があったようですねフェリクス様」


小さなジャム瓶の底をなんとか埋め尽くすだけの金をチリンと鳴らせば、二階から雷が落ちたような轟音が屋敷中に響く


「…………」


執務室中に散らばった書類が宙を舞い、粉々に砕けた机を前にフェリクスは握った拳を震わせた。何故あんなはした金を返そうなどと…出て行けと言った時に正直に言えばよかったではないか、何故私にこうも恥をかかせるのか!




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