第3話
「……………」
「……それで、いくら出すの?」
「言い値で」
「うっそ、本気なの?何の手管もしらない生娘なのよ?」
「ああ私は騙す気はない。その証拠にここに現金も用意してある。むろん足りなければすぐに補充しよう」
サラという女はどうやら上客を前に興奮しているようだ、それを表すように煙草を持つ手が微かに震えている。何がともあれ一刻も早く我が城に帰りたい…
むせかえりそうなほど甘ったるい香水の匂いや化粧の香りが利きすぎる鼻に突き刺さって不快でならない、まさかあの乞食がこのような選択をするとは思っていなかった…
少なからずあの乞食が解雇されたのは私の責任でもある、ような気がする。のでこっそり後をつけていたがここに入ったのを見て急遽金を用意してきたわけだ
「…売らないっていったらお客さんどうする?」
女の喉が上下したところをみると、どうやら欲に駆られたらしい事を察する、それはそうだろう高額な値で何度も相手をさせたほうが店側には利益が高いだろう、ましてや日に何度も相手をさせるならばもっと稼げるはずなのだから
「なるほど、そちらの言い分よく理解した。だが私ならそのような愚かな事は考えないだろうな、自分の店が次の日には跡形もなくなる事を思えば今ここで取引をしたほうがいいだろう」
「……わかったわ、では今そこにあるケース全てもらうわ」
「いいだろう」
座った椅子の側に置かれた三つのケース全てをテーブルに乗せ、中身を確認させれば女の顔は金色に照らされる、側にいた軽薄そうな女も横からそれを覗くと満足そうに頷く
「あの子を呼んできてちょうだい、まったく幸運の持ち主だわね」
「幸運か、強運かは判断付きかねる」
「あんたほどの美貌の持ち主に抱かれるって言うなら前者でしかないわよ」
抱くつもりなどない。もちろん金で囲う気もさらさらない。適当に金を渡して放逐するつもりでいる。などと言おうものなら欲に駆られた人間は何をするかわからない。
無理やり口を上げて笑みを作ると、階段を降りる足音が二人分…最初の一人は先程までサラの横で唾をたらしていたその後ろに隠れるようにして降りてきたのは紛れもない乞食だがその姿に組んでいた手が膝から落ちそうなほど驚いた
薄布が幾重にも重なったナイトウェアから覗く脚はすらりとまっすぐに伸び、上半身は光を通してうっすらと素肌を透かしてしまっている。まだ湿っている髪はなだらかな曲線を描いて肩を覆っており頬を染めた表情に何かがパチリと弾けたような気がする。
奇妙な感覚はすぐに霧散して成すべき事を思い出す
「リオン、馬車にあるケースを」
「はいご主人様」
物音ひとつさえさせずに下がったバトラーのリオンは時間をかけずにもう一つのケースをフェリクスの手にかける
「これは彼女を保護してくれた礼だ。ではいくぞ」
「貴方は…!」
「ここで名は出すな。ともかく今は私についてきてもらう」
着ていたコートを彼女の肩に回しかけると、背に手を回しほとんど強制的に馬車へ乗せれば後はなし崩しだ。不安そうに馬車に揺られる間もちらちらとこちらの様子を窺うだけでいい加減に煩わしくなってくる
「言いたい事があるのだろう、遠慮せずに言えばいい」
「………だったら…私を、私はどうしたらいいのかしら?」
「…………」
「だって貴方は私を買った、わけなんでしょう?──ひょっとしてまさかだけど…私を助けてくれたの?」
ひょっとして
まさか
この娘は私が善意の気持ちで行ったとは微塵も思っていないらしいのがまた腹正しい。金の問題ではないあんな額はノエルが女に入れ込む額より少ないだろう。
「買ったのは間違いない、そうだな。手始めに屋敷の掃除からでも始めてもらおうか」
「掃除?そんなことでいいの?」
明らかに安堵した様子に内心ほくそえむ屋敷などと言ってみたが、我が家は広さだけでいうなら城だと言っても過言ではない、使われて久しい部屋は数えるだけでも鬱屈しそうなほどあるしきっとこの娘は十日も経たずに根をあげるに違いない。
「お前の名を聞いておこう」
「私はピオニア…只のピオニアです、ご主人様」
背筋を伸ばして答えた声はどこか誇らしげで、あられもない格好でなければそれなりのレディに見えただろうことが残念だ
「ピオニア…“王者の花” “美しい妖精”東洋では“牡丹”と呼ぶらしい」
「…そうなのですか、それは存じませんでした」
やるべき事を明確に伝えてからピオニアはすぐにメイドとしての姿勢に切り替えた様子であっという間に丁寧な口調にくわえ所作も完璧にして応じる、それには初めて好感を持てる
馬車の中、互いに視線が絡まないように私は右奥へフェリクスは左奥に座ってはいるがどうも視界の端にうつる男の意図が掴めない、失礼な態度しかとってきていない娘をあんな大金で買い取る意味があったのだろうか?てっきりベッドへ行かなければならないのだろうかと危惧してみれば屋敷の掃除でいいという…金糸雀の髪に深い藍色の目が印象的なこの美丈夫はつまらなそうに流れる風景を眺めているだけだというのになんだかとても居心地が悪い。
うなじが逆立つような腹がぞわりとするような…こんな感覚は生まれてより初めての経験だ
しばらく経つと馬車が止まり、バトラーが外からドアをあけてくれる颯爽と降りたフェリクスの後を追えば突然足をとめた背中と激突してしまう何事かと顔を上げるとなぜか険しい目でこちらを見下ろされる
粗相でもしてしまったかもしれない
「申し訳ありません…?」
「…」
「きゃ…」
抱きあげられたかと思うと猛スピードで歩きだした浮遊感に目をつぶっていたが足が着地したことでそっと瞼を持ち上げるとどうやらすでに室内にいたらしく私を持ち上げていたはずのフェリクスはバトラーにまるでハチドリが鳴くように何か伝えるとすぐに部屋を出て行ってしまう、残されたバトラーは人のよさそうな笑みを浮かべると部屋にあるクローゼットを開け寝間着を用意してくれる
「明日はわたしがいいと言うまでここを出ないようにしてください。こちらにも準備が必要ですので、着替えも明日ここに届けます、よろしいですね」
「え、ええ…わかりました。言いつけはきちんと守ります」
「物わかりのよい“人間”は大好きですよ、では おやすみなさいませ」
何となく…ふわふわとさせる美声のバトラーが部屋を後にすると、さっそく寝間着に着替えようとして気がついたフェリクスの…いえ今ではご主人様のコートを借りっぱなしだったわ、でも言いつけは守らねば明日返せばいい
とにかく今はすぐそばで眠りを誘うベッドに潜り込みたい、腰を下ろすと沈み込むほどに柔らかなブランケットは清潔で温かい、すっかり冷えた身体をそれらで包めば自然と瞼が落ちてきた。
「今日はきっと…言い夢が見れるはず…」
悪夢だ……眠りもしないのに悪夢を見る事が出来たのはある意味奇跡だと言わざるをえない。
「じゃぁあの娘をしばらくここで雇うつもりなんだな?」
書斎部屋のソファで優雅にワインを飲んでいるノエルをねめつける。こちらの散々たる一日を思えば全ての元凶がノエルである事は明白である。
「まったく煩わしい、私の城に“人間”がいるのは皆に少なからず影響が出るだろう…極力早くあの娘には出て行ってもらわねばならない」
「別に構わないだろう?」
「そうでもない、まだ年が浅いヴァンパイアも居る もし彼等が吸血欲に負けるような事があれば──」
「そうなったときはそれまでということさ」
「半狂乱で人間をむさぼる同士など見たいとは思わないがもしそうなった時はもちろん本人はお前に引き取らせるからな」
飲んでいたワイングラスを持ち上げて了承を表すとノエルは再びワインを流し込む、酔う事がないのにもかかわらずこうして“人間”であったころの習慣に今も捕らわれる
「フェリスク…リリーをどう思う?」
「……どうも思わないが」
「実の所彼女を同士にしようかと迷っているんだ」
「何を馬鹿な事を!」
怒鳴った拍子に机からいくつかの本が床に散らばるとノエルはやれやれとそれらを拾い集め机の上に戻す
「考えても見てくれ同士が増えるなど半世紀ぶりじゃないか?皆きっと祝福してくれるさ」
「ノエル…感情に流されるな何故我等の数が増えないのかわかっているはずだろう
永過ぎる時に耐えられず死を選ぶ者が多いからだ──少なからずそこまで思う“人間”であるならば同士にするなど考えるな」
「………一人で生きるには永過ぎる僕は“人間”であったころも愛なしではいられない性分だったせいかな」
「………」
見送りはいらないよと手を振ったノエルをバトラーに見送らせると、一人残った書斎でお気に入りの書物を開く。
今度もきっと遊びの一つだろうと思っていたがあそこまで思いつめているとは…よほどリリーを愛しているのだろう、だがノエルの言う事には矛盾ばかりがついてまわる
ヴァンパイアは同士を愛する事はない、いつも欲するのは“人間”と決まっているためか愛してしまった“人間”を失う事を恐れ同士にしてしまえば、終点はそこだ。
「フェリクス様、ノエル様をお見送りいたしてまいしりました」
「ご苦労、リオンお前も休むといい」
「はい」
扉の外から気配を消したリオンもヴァンパイアだ、むしろこの城にいるものは全てがそうである。古くよりの同士もあれば半世紀ほど前になった新人もいる、ヴァンパイアは一世紀ほどで吸血欲から解放される、ほとんどの生命活動が停止されるので食事も必要なくなる。爪や髪も失われれば再生するが成長するのとはわけが違う。再生させるために“糧”は必要だが“血”である必要はない
この書斎にもあるドラキュラ伝説や吸血鬼に関する書物にあるように化け物である事は決してないのだが、年若いヴァンパイアには当てはまらないケースも多々ある事は否定できない
あの娘が“糧”にならないように采配しなくてはならない──だがこの煩わしさから解放される日もそう遠くはないはずだ
「……あの、これは?」
「朝食ですよ、これを食べ終えたらさっそく仕事についてもらいますのでしっかり食べて下さいね」
「え、あ…はい…」
いつものように日が昇る前に目を覚まし、ベッドから起きあがった直後にドアをノックされ廊下に顔を出したピオニアは面喰ってしまった、すでに身支度を整えたリオンがハンガーに掛けられたメイド服をもって立っていたからだ。おはようございます さわやかほほ笑むとそれらをピオニアの腕に抱かせ、
「こちらが外出用のブーツ、こちらは室内履き、これは仕事用の靴、ああこれはフェリクス様と同伴せねばならないときに等特別な時用です」
やたら靴ばかり揃えられたかと思えば
「どれ、足を見せて下さい。昨日は素足でしたので傷がないか確かめさせていただきます」
「い、いえとんでもありません、私なら大丈夫です!」
「新しい靴が汚れてしまってはいけませんので」
脇に両手を差し込んだかと思うと強制的に持ち上げられ椅子に降ろされる、昨日からフェリクスといい何故こうも荷物のように運ばれるのか恥ずかしくなって俯けば、膝を床につけたリオンはさっと足を確かめると
「よかった怪我はなさそうですね、では」
廊下にあった箱を次々に室内に押し込んでいけばあっという間に部屋は窮屈になってしまった、おもむろにその中の一つを開けてピオニアに向けてくる
「こちらの白い箱類はランジェリーです、一通りそろえてありますので毎日代えて下さいね。ああ、あとこちらはストッキングです、ガーターベルトで押さえるタイプになります
お仕着せについては月曜のみ色を変えていただく必要がありますのでこちらも数枚ご用意しました。クローゼットに掛けておきましょう」
「あ、あのっ自分で」
「おはようございます、メアリと申します。」
「おはようございます、イザベラと申します。」
ぞろぞろと部屋に入ると完璧な所作であいさつを済ますと、リオンが何か指示する前に手際よく箱を片付けて行ってしまう、あっという間に部屋が片付けばリオンは
「では朝食をご用意いたしましょう、そうですね。こちらで取られるのがよろしいでしょうではしばらくお待ちいただく間に身支度をすませてください」
呆けにとられるピオニアを置いて三人はさっさと行ってしまった。こんな明け方前から起きているのは自分だけだとおもっていたのに彼等は完璧な姿で現れた所を見るとピオニアの考えは甘すぎたようだ…
「明日からはもっと早起きしなきゃ…」
新人メイドはどこへいったとしても誰よりも早く起きて誰よりも早く仕事をせねばならないのが掟だ、これ以上の失敗をしてはいけないと急いで身支度を済ませて行く
ありがたいことにこの部屋には洗面所が備わっているので冷水で顔を清め、髪はひっつめて纏める。柔らかな布地のお仕着せは黒地で真っ白なエプロンには可愛らしいフリルがついている、髪に白いカチューシャをはめれば先程のメイド達と同じ井手達の完成だ、ただし圧倒的な美しさは到底足元にも及びそうにもない
「何とかさまになったかしらね…?」
軽くノックされドアを開けば、素晴らしいタイミングで朝食が運ばれてくる。小さめのテーブルに乗せられた皿には焼き立てのパンに湯気があがるスープ、ベーコンに半熟玉子その上にパセリが振りかけられ、リオンが垂らしてくれたソースからは柑橘系のいい香りが漂ってくる。
「こんなすごい朝食、いただいてもよろしいんでしょうか…?」
ローウェルの主人が食べていた物と遜色ないほどの朝食に何かの間違いではないかと尋ねるがそんなことはないらしい、ということは伯爵と男爵とは召使への待遇が違うと言う事なのかもしれない
「食べ終わりましたね、では皿を下げましょう」
ぱっと現れたメアリが皿を片づけてしまうと、イザベラが違う皿をテーブルに並べて行くその上にはやはり湯気をあげる鮮やかな色の紅茶に斬り分けられたレモンパイが乗せられている、ワゴンの上にはまだホールのパイが残されているのに気付きごくりと唾を飲む
「リオン様、美味しそうですけど…もうお腹一杯で入りそうにもないです
申し訳ありません…」
「おやこれは気付かずすみません、では下げましょう。若い娘の相手は久しぶりでしたので」
ほっと胸をなでおろしていると、リオンは懐から洋紙を取り出しピオニアの前に広げる
そこには綺麗な字で日付と数字が書かれている
「これが今月貴方の予定表になります、週に休みは二日です、一日の労働時間は朝6時より昼10時、休憩をはさみ午後3時から夕方6時までです、その間の時間はお好きになさってよろしいでしょう。ここには大きな図書室も設けてありますので自由に使って下さい、ただしフェリクス様の書斎室に政務室、寝室には立ち入らないように」
「はい」
「これが屋敷の見取り図です、ほらこことここは×印をしておきました。」
「ご丁寧にありがとうございますリオン様」
「食事ですが、皆自由に食べているのですが…一応このキッチンの隣が休憩室になっていますのでそこで取るといいでしょう、シェフがその日その日で用意したものを召し上がってください」
「はい」
「仕事についてはここにいるメアリとイザベラが教えます、何でも聞くように」
「メアリさん、イザベラさんどうぞよろしくお願いいたします」
膝を折って礼をすると三人は優しく微笑んでくれる。何ていいお屋敷何だろう!優しく親切な方達に食事までつけてくれるというのだからここは天国じゃないかと思う
大きな窓ガラスを拭きあげながらありがたさに涙腺が緩むのを感じる、丹念に掃除をしながら空いた時間を有効活用できる方法を考えた、お昼の時間おおよそ4時間は自慢の刺繍をしようハンカチーフにするのがいいかもしれない買い取ってくれる店を見つけるのも重要だ、夜の時間は11時間もある、何か街で仕事を探そう
ある程度貯まったら借金を返そう、もちろんどれだけ働いたとしても背負っている借金全てを返せるはずもないが ローウェル、フェリクスから借りたお金を無かった事には出来ないのだから。
掃除し終わった部屋に鉛筆でチェックを書き込むと次の部屋へと移る、広大な見取り図に最初は眩暈がしたがこれが終わるまではメイドとしてここに置いてもらえるそう思えば少しも苦でない、時計を確認してからリオンに声をかけ休憩に入る。ハンカチーフも刺繍糸も針もないのでこればかりはもう少し先になりそうだけど、じっとしているのは性に合わずさっそく図書室に行く事に決める。
二枚貝のような大きな扉を開けると、すぐに目を入ってきたのは移動式の螺旋階段で天井まで高く伸びる書棚は半円形にびっしりと並び天井から下げられた天球儀のようなライトの周りには星のようにいくつかの小さなライトがある。絨毯は毛足の短いもので読書の妨げにならない程度に足音を消してくれる、広々とした室内にはいくつかのソファに重厚な机が一席もうけてある。机の上にはいくつかの書物が積み上げられているが背表紙を見て何の一貫性もないことからきっと暇を持て余した人が片付け忘れたのだろう
螺旋階段を一階分だけのぼって適当に一冊手に取ると紙の手触りにうっとりしながらも一ページめくる
「詩集だわ」
「その詩集は初版だ、丁寧にあつかうように」
「!」
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