第9話 輪廻
見ているのも眩しいくらいの天井を眺めるのが、僕という人生の殆どだった。
鋭い針が幾重にも腕に刺さっている。医療の機械が点滅音を絶えない。
僕の意識が目覚めているときは、まずは生きていることを確認して、窓の外がどんな天気を確かめる。さんさんとした日光が出ているときや、雨が降っているときは季節感がよく分からないが、雪が降っているときだけは体が『寒い』という感覚を思い出していく。いまは冷たいものが溶けた季節になっていた。
24度前後の空調で保っているこの部屋は、僕が安定して生存できる僕の家に他ならなかった。それは生まれた頃から、ずっとそうだ。
普通なら言語どころか数字すら学ぶことだってできない。
だけど僕には年相応の知識と体験が備わっている。僕が回復を迎えたら、教えていない言葉を扱えている僕を不気味に思うかもしれない。
それでもいい。現実はいつか帰るための場所だ。だからいま、まぶたを閉じてあの場所へ向かおう。
すると妙な浮遊感がやってきた。肉体から開放された者は魂となり、この世界を自由に渡り歩くことができる。僕の魂は一直線にあの場所へ向かった。
浮遊している僕と違って、眼下ではランドセルを背負った小学生たちが登校している。肉体は時に不便だと思うようになった。でも誰かとお話したり、好きなことをするには必要不可欠なものだろう。この状態は『幽体』と呼ぶらしい。
授業開始前の喧騒の中にある教室の中で、彼女は窓際の席で一人佇んでいた。周囲は彼女を遠巻きにするように離れている。列が整っている席のなかでも、少女周辺は僅かに遠く離れている。
僕は窓や壁をすり抜けることができる。教室の中へ入ると、彼女がこちらを振り向いて僅かに頬を緩ませた。それからノートへ視線を落とし、文字を書いていく。僕はいつものように覗いた。
『おはよう。来るの久々かな?』
その言葉が他でもない僕に向けた言葉だった。彼女がクラスメイトから遠ざけられているのは、不思議ちゃんとして扱われているかららしい。例えば先程のノートがわかりやすいだろう。誰に向けたのかもわからない言葉を見てしまい、担任の先生が訝しんでしまったのが不思議ちゃん扱いの発端となった。
学校の先生は知識を子供たちに授ける存在だが、全ての人が立派なわけでないことを彼女から知ることが出来た。もっとも最近は、教師について興味を持ち、職員室を眺めることもある。先生たちも子供にはわからない苦労を負っている。世の中はそんな面倒なしがらみで出来ているのだと知る。そう考えると、この状態が一番幸せなのではないかと思うようになった。
『幽霊さんは、自分のことを覚えているの?』
他愛ない会話が始まった。少女は基本的に真面目に授業を受ける。けど、算数の授業は苦手のようで、退屈しのぎに僕へメッセージを送るのだ。
しかしこちらから伝える手段は限られている。物掴むことも出来ないし、声を出すことも出来ない。僕はただ浮遊しているだけの存在だ。いずれは元の体に戻ってしまう。だから幽霊というのは筋が違うのだけど、少女はすっかり幽霊扱いしている。
少女は周囲と比べて不思議な雰囲気をまとっていた。病院の中では限られた女性としか関わってこなかったから人を見る目には自身がないが、彼女に対する評価は概ね『綺麗』だと口にできると思う。
ただきれいなだけではなく、あまり周囲に対して口を開くこともなく、自分の席で本を読んでいることが多い。僕は何も伝えることが出来ないから、窓と彼女の席の間に立っていることがほとんどだ。僕の関心事は、少女が学校で触れてきたものばかりだ。
僕は初めて出会ったときのことを思い出した。体から離れるようになったのもこの頃からだ。
看護師さんから退院したら学校へ行けるね、と語ってくれた時に僕は初めて学校という存在を知った。それはどんなものか、と聞く知性もなく、心なかで学校という響きを繰り返し唱えていた。どういうものか知ったのは、母が絵本で学校の場面がでてきたときだ。同じ子どもたちが一斉に集まり、勉強というものするらしい。僕は勉強の意味すら知らなかった。ベッドの上では殆ど眠ってばかりで、目が覚めるのは月に一度や二度程度。10歳になった今でも、この頻度は変わらない。
死を待つばかりの人生だったけど、学校への興味は日に日に増していく。生まれてはじめて、物事に対しての興味を持つきっかけとなった。
ただどんなものか知りたい──しかし僕の意識は深い暗闇の底で沈んでばかりで、浮き上がる気配はなかった。
僕は死んだのかもしれない。せめて学校だけは知りたかった。
そんな後悔がよぎったとき、周囲の黒い壁が崩れだした。
目の前に光が差し込み、色が向こうからやってきた。暖かな風が僕を透き通っていき、胸の中に息吹が宿った。四角い窓で切り取った景色の一部に過ぎなかった空の広大さを初めて目の辺りにしたとき、体の中に水が流れていることを知った。
「空って、綺麗だ」
僕は生まれてきたことに感謝する。
空が綺麗だって、いままで知らなかった。
これからも知りたいものづくしだ。この生命が尽きるまで──。
────────
────
──
少女が学校を卒業する日が近くなると、僕の意識は深いドロドロとした黒いところに佇むようになった。
僕は死にたくない。暗闇にも意思があることを信じて、何度も願いを語りかけた。
──学校に行きたい。あの子に会いたい。おしゃべりしたい。
暗闇に向かって意識を伸ばす。なのに自分だったものが冷えて固まっていく感覚が絶えずやってきた。
──死にたくない。僕は生きたい。
だけど、僕の思いは二回も届いてくれなかった。
思い出が次々と消えていく。
彼女とのほんの少しの語り合いも、身につけた言葉も。
自分が何者なのかを考えた瞬間、なにもなくなった。
産声を上げるとき、光をいっぱいに浴びる。体の中に外からのものが入り込んでくる。
ほろり、涙がこぼれた。僕という意識は一つの器にある。まだ生きているのだと実感できた。
「……この感じ……もしかして──」
僕は視線だけを動かして、声の方を振り向いた。苦しげな表情から一点、心の底から嬉しそうに笑う面影をみた。
「幽霊さん、ひさしぶり。こんな形で、会うなんてね」
僕は全身を使って産声をあげた。
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