第18話 落ちる


 まだ望みはある。

 エマは希望を捨てずに、森を抜ける道を進んでいた。

 隣には伸びた男を担ぐユーリ。


 色々とあったおかげで制限時間ギリギリなのだ。

 日頃から成績の良いユーリであれば問題ないだろうが、エマくらいの者がギリギリ合格ならば、ワーズ推薦が決まるほどの結果ではない。


 しめしめ、とほくそ笑むエマである。

 このまま何事もなく帰れればオールオーケーだと上機嫌に足を進めた。


 行きでは「なんじゃこれ!」と思った背筋が冷えるような吊り橋も、笑顔で渡れるくらいの上機嫌である。


「落っこちないでよ」

「む。ユーリこそ」


 もしやこの男は自分をまだ十歳児とでも思っているのだろか。

 エマはフンと鼻を鳴らして言い返した。


 深い深い谷だ。

 谷底には急流の川。


 落ちたら一溜りもないだろうなと橋の板の隙間から下を眺める。

 ゾッとする感覚が、少し癖になりそうだった。


「さっさと歩く」


 相変わらずの辛辣さである。

 リュカには「頼みます」なんて言われたが、そんな必要は欠片も無さそうだ。

 悪いけど私は落ちますよ、とこの場にいないリュカに向けて思う最中、


「んん!?」


 とんでもないものが目に入った。


 エマは橋から身を乗り出し、遠くの絶壁へと目を凝らした。


 目を擦り、もう一度凝らす。

 どう見ても、人が引っ掛かっていた。


 橋が大きく揺れるのも構わず駆け出したエマの背にユーリの声が掛かるが、答えている暇はなかった。


 走るのはいつまで経っても慣れやしない。しかし火事場の馬鹿力とはあながち嘘でもないらしい。いつもなら到底出せないような速さで駆ける。

 目的地に辿り着くころには息が上がり切っていたが、エマは必死に声を絞り出した。


「だ、だいじょうぶですかぁ……!!」


 当人が全く大丈夫そうではないが、今にも崩れそうな足場に支えられ、震える手で絶壁の突起を掴んでいる女生徒は、涙ながらに助けを求めた。


 手を伸ばしても届かない距離。

 どうしてあんな場所に、と思うが彼女より数メートルほど下の岩場に生えている花を見て納得した。

 しかしもっと簡単な採取場所は山ほどあるものだ。

 なんでこんな辺鄙なところをわざわざ……しかもあの怯えようから浮遊魔法が使えないというのもすぐにわかる。


「落ち着いてくださいね、今助けま┄┄」


 言い切るよりも先に、女生徒の足場が崩れた。

 絶叫が耳に届く。

 大粒の涙を置き去りにして、背面から真っ逆さまに落ちていく女生徒と、実際よりも長い時間視線が交わっていたように錯覚した。


「エマ!!」


 自分の名を呼ぶユーリの声が聞こえた時には、エマは体を宙に投げ出していた。

 女生徒を追い、谷底へと落ちる。

 ワーズへの推薦枠から落ちるという意味で掲げた宣言だったが、まさかこうして文字通り落ちることになるとは。

 バサバサと風に吹かれながらそんなことを考えていた。

 失神している女生徒に向かって不格好に泳ぐように近づくエマは、腕を伸ばして彼女の体を捕まえた。


「《浮遊フロート》」


 空気抵抗で顔面がブルブルと震えて、間の抜けた唱え方になってしまったが、エマの魔法は発動した。


 二本のサークルがエマたちの体を包み、重力を無視した球状の空間が作られた。

 女生徒を抱き込んだ状態でプカプカと浮き上がったエマは、シャボン玉のように上を目指す。


 上がっていきながら、かなり落ちていた事を再確認した。

 あのままなら間違いなく死んでいた。

 人の形も保てないほど潰れただろう。そんな高さだ。


 落ちる寸前、一瞬見えたユーリの真っ青な顔が、落ち着いた頃に思い出された。

 少し申し訳ない気持ちになる。

 大丈夫だからと、一言でも残せたらよかったのに。


 エマは早く上に着かないかと急く気持ちを抑えながら、魔法の維持に集中した。


 幾らか昇れば、崖の縁から身を乗り出しているユーリの姿が見え、エマは無事だという意を込めて大きく手を振った。



「ただいま~、何とかなったよ~」


 言いながらやっとのことで地上へと降り立ったエマは、女生徒を地面におろしてからふにゃりとへたり込んだ。

 いくら魔法が使えようと、命綱なしのダイブは本当に肝が冷えた。


 足に力が入らないまま、ユーリに向けてへらへらと笑いかければ、


「ぐぇっ!」


 一瞬、ラリアットを食らったのかと思った。


 突然の死亡ルートかと震え上がるエマ──だが、どうやらそうではないらしく。

 背中に回された腕がぎゅうぎゅうと体を締め付けてくる。

 頬に擦れるふわふわとした金髪。

 後頭部を押さえつける大きな手は、小さく震えていた。


 心配を掛けてしまったと、鈍いエマでも察せた。


 謝罪の意を込めてユーリの背をゆっくりと撫でれば、ピクリと反応した後、「最低最悪な気分を味わった」と地を這うような声で呟いた。


「ごごごごごめん……!」


 長い付き合いだがこんな声は初めて聞いた。

 本気で怒っているようで、エマはビビり倒しながら謝る。


「ぐぇぇぇ! しぬ、しぬ!」


 返事の代わりなのか更に締め上げられ悲鳴を上げるエマだが、その後もしばらくの間は解放されることはなかった。


 本気で窒息死ルートを覚悟しそうになったころ、やっと抱擁が解かれた。

 気が済んだのかシレっとした表情のユーリに手を引かれて立ち上がる。


「無事でよかった」


 そう言って、頭を撫でられる。

 もう怒ってはいないようだった。


 その後、お互いに失神した人間を担ぎながらゴールした二人は、心身ともに疲弊しきっていた。二人揃ってげっそり顔である。

 ともあれ何とか時間内。

 無駄に過酷な卒業試験となったが、一先ずはお疲れ様ということで二三日は引き篭もって眠りたいと思うエマであった。

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