11
『シュウさん、わかりましたよ』
リミから連絡があったのは午後の五時を回った頃だった。橘はひとりで、近所の神社の境内で身体を動かしているときだった。
身体に火を入れる作業を行っていた。柔軟から気息の調整、基本動作の反芻――汗をかいて身体を、身体に刻まれた記憶を起こす作業だ。拳を握り腕を振り足を上げて膝を折る。どこを見るともなく正面を見据え全身に気息を通して力を、勢いを、記憶を身体のすみずみに充実させていく。
橘は考えない、意識しない、思考しない、すべてを。身体に刻まれた記憶を呼び起こす、その作業に集中する、没頭する。周囲に自分を埋没させる。
携帯電話が鳴った。リミからだった。
『マジでスーサイドしたの、誰かわかりましたよ』
電話口からリミの声にかぶさって、時折騒々しいBGMが聞こえてくる。と思えば静かになる。不規則にそれが繰り返される。どこか店の前にいるのだろうか。橘は礼を言って続きを促がす。
『名前はヤマサキ・アカネ』
「アカネ?」
汗をぬぐって橘は訊きかえした。鼻先を、土の匂いがかすめた。不意に、蘇った。
――同位体、殺したら
BGMが大きくなった。リミの声が聞き取りにくくなった。リミが声を張りあげた。
『そうっ、アカネ。漢字は普通の山崎に、朱色の音って書いて朱音。歳は私のいっこ上らしいから、たぶん十九です』
――逃げ場なくなって逆に
大きくなったBGMに、混じっている。
『
――目の前が広がるよ
BGMに混じって、聞こえてくる。
『あと、マジでフライした動機として一番わかりやすいのが、彼女、産まれた瞬間から発病してたらしいです』
COMD/先天的臓器融解病を。
橘は震えた。BGMの奔流が電話口から溢れ出し、リミの声を押し流して、橘の耳元で溜まった、滞った、澱みが、生まれる――。左手が胸元の痣/打撃痕/血の溜まりへと吸い寄せられていく。声が、記憶が、呼び起こされる。
――あたし待ってるから
その時、電話の向こうから音が聞こえた。重い、衝撃音だ。アスファルトにコンクリートの塊を叩きつけたような、腹の底に残る音だ。鈍く、何かがはじけてくだける、重い音だ。
BGMを一瞬で吹き飛ばし、悲鳴と怒号と歓声を伴って橘の耳に飛び込んでくる。
スーサイドの音だ、と橘は思った。胸の前にあった左手は拳を握っている。
『もしもし? 聞こえてますかシュウさん?』
気がつくとBGMはもう聞こえてこなかった。スーサイドの喧騒も徐々に小さくなっていく。
アンダーテイカーや救急隊員との小競り合い、コレクターのパーツ争奪といったロムの盛り上がりは飛び降りた後のむしろこれからが本番で、喧騒が小さくなっているということはつまりリミが場所を変えているのだ、と橘は認識する。
『すみません、さっき、話を聞かせてもらった人が、飛んだみたいで、土曜の夕方はやっぱり、ギャラリーが、多いから、派手に飛ぶ人、多いですね、』駅の近くは高いビルも多いですし、と息を弾ませながらリミは言葉を続けた。リミは走っている。言葉の隙間に息遣いが弾ける。上下の振動が音となって響く。
『ちゃんと、聞こえてます?』
「もう大丈夫だ、大丈夫」
『……シュウさん? どうかしましたか?』
声が、落ち着いた。走るのをやめたらしい。
「いや問題ない。そうだ、おごるのは何がいい?」
『え、え、今、決めるんですか?』
「ああ」
『じゃあ―――オムライスで。今日、おいしそうなお店を見つけたんですよ!』
「サトミにも、そう伝えておいてくれ」
『もうシュウさん、そういうのは自分で言ってください。じゃあオムライス、近い内にお願いしますね』
「ああ、今日は助かった」
『いえいえ。ではまた明日です』
電話が切れた。
橘は汗をぬぐった。土の匂いはもう、しなかった。空を見上げた。快晴の、夕焼け空だった。ふと、橘は想像した。山崎朱音の見た空を、橘は想像した。
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