12
日が落ちてから橘は練習に向かった。歩く。身体を冷やさないように歩く、歩く、歩く。アパートに着く。帯でまとめてある道着を肩に担いでまた、歩く、歩く、歩く。体育館につく。両開きの重い扉を開ける、入る。
「ちっ、来やがった」
オサムが毒づく。道着を脱ごうとしていた。体育館にはオサム以外の人影はなかった。
白い照明の下、オサムは道着に手をかけたまま止まっている。迷っている。
橘は首をめぐらす。時計を確認する。体育館のステージ、その左上に設置されているモノクロ時計は現在午後八時五分前を指しており練習開始時刻は午後八時であるからしてまだ練習は始まってもいない。
橘はオサムを見る。
オサムと視線がかち合う。
耐え切れなくなったようにオサムは「ああもう何で来たんだよっ、土曜の夜だぞ、遊びの予定のひとつでも入れとけよ、ったく使えねぇ!」吠えて悔しそうに帯を締め直した。どうやら他の部員には予定があるらしい。だから今、体育館にはふたりしかいない。
好都合だ、と橘は思った。だから橘は言った。うねうねと大げさに煩悶するオサムに言った。
「昨日の続きを」
突如脱力してオサムは橘をにらみ、にらんだままオサムは体育館の中央へとのろのろ歩く。ひとりで柔軟し始める。道着に着替えて、橘もそれに続く。橘を一瞥してオサムが言った。
「はいじゃあ復習しまーす、まず流れをやるんで見てくださーい」
棒読み、橘に背を向け、オサムは気息を整える。過剰な呼吸によって全身に力を、勢いを、記憶を身体のすみずみに充実させていく。
――肩の、微細な上下が収まった。
その瞬間、橘は言った。
「おまえが俺の同位体だったとはな」
オサムの中で気息が狂った。行き場を失った力が、勢いが荒れ狂って変換されて、オサムの口から放射された。声、笑い声として放射された。つまりオサムは笑った、爆笑した。
「も、もしかして……?」
「ああ、今日まで知らなかった」
「ひー、腹いてぇ、ひー」
そう言ってオサムは大げさにのたうち回った。それを見下ろして橘は言い返した。
「自分よりも二〇センチ近くも身長が低いとは、ちょっと想像できなかった」
「言うじゃねぇか、
「それも、耳タコ」
「そうかい」
それにしても、とオサムは胡坐をかく。体育館の中央で座り込む。立ったままの橘の顔を下から覗き見て、にやりと笑った。
「人にウルトラ関心のねぇ修先生が珍しく他人に興味を持ったじゃねぇか。どういう心境の変化なんだ? つうかむしろ、サトミちゃんに向けてやれよ、恥ずかしがらずにそれを、よ」
途中から真顔になってオサムは言った。不意に橘は気がつく。しかしそれとはまったく別の、用意してきた言葉を橘は言った。
「同位体って誰だろって思って」
「俺だったわけだ。それで?」
一瞬で、オサムの表情が砕け、笑顔になった。橘はうなずいて言った。
「アカネは、ササキ・アカネは殺した、と言っていた。殺すことで強くなったとも」
「おお、やるのか、俺を?」
橘は見た。
オサムはうれしそうに笑っている。自信が、あった。オサムの視線には力があった。どうあっても橘には負けないという自信が満ち溢れていた。気負いもてらいもなく静かに橘の言葉を、その続きを待っていた。
橘は見る。そんなオサムを見る、視線を据える。自分の同位体を見る。オサムは橘の同位体だ。リミは助け合い、アカネは殺した、同位体だ。同時にこの世に生を受け、別々の家で同じ二十二年間生きてきて、お互いにお互いを補完し、破壊し合って生き延びてきた、同位体だ。
橘は拳を握った。
「オサム」
「あ?」
「ササキ・アカネの所在を、教えてくれ」
オサムは笑った。顔全体を使って本当にうれしそうにオサムは笑った。自分もこんな風に笑えるのだろうか、と橘は思った。
「やるのか、リベンジ」
「ああ」
闘おう、と橘は思う。父は逃げなかった、と橘は思い出す。だから、と橘は考える。橘は拳を握る。強く握る。手の中には白い塊も、指輪もない。だからこそ、橘は強く握る。
「りょーかい、りょーかい。
オサムが汚れてもいないのに道着の尻を払って立ち上がる。
「じゃあ、ついでに、とっておき、教えてやるよ」
言ってオサムは一歩で間合いを詰める。道着の襟を掴まれた――と思った瞬間、抗う間もなく視界が一回転して橘は体育館の床に叩きつけられた。
「おいおい、そんなんで大丈夫なのか?」
呆れたように、オサムが見下ろす。
橘は立ち上がる、構える、拳を、握る、痛みを意識から振り払う。
「ああ大丈夫だ、もう、大丈夫」
橘は正面を見据え、言った。
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