10
橘は電話をかけながら着替える。並列処理だ。身体を動かすに際してもっとも基本的な観念だ。そう学んだ。現在のサークル/オサムが師範代のサークルで学んだことだ。橘は同時に行動する。
「もしもし、母さん?」
右手にストレートの携帯電話を持ち、部屋着のジャージ(下)をずらして脱いで左手でたたむ。
耳元で母が言った。
『あら修、どうしたの珍しいじゃない、あんたから電話かけてくるなんて――ああ、わかったわ、お金がなくなったんでしょう、違う?』
「いや」
生返事でジャージ(上)の袖から腕を抜く。左、右、と抜いて携帯電話は右から左へ移動させる。よどみなく動作を執り行う。
『じゃあお米? また無洗米でいいかしら。あ、でもお米を送るよりはお金を振り込んだ方が早いわよね、じゃあお金でいいかしら?』
「いや、違う」
否定して橘はクローゼットの下段を引く、引いて開ける。片手で開けるためには左右の把手を交互に、右、左、と少しずつ引いて開ける。ず、ず、ず、ず、と開ける。
『あら、じゃあ何? 就職先でも決まったの?』
「…………」
難しい、と橘は思った。力の加減が難しい。右の把手を強く引き過ぎると左の把手が引けなくなる。右を少し戻す。ちょうどいい位置まで戻す。左を引いた。加減とバランスだ、橘はうなずく。
『もしもし? ちょっと黙ってたら母さんだってわからないわ。ほら、しゃきっと言ってしまいなさい』
「おれの同位体って、どこにいるんだ?」
『――え?』
ようやく開いた。色の違うジャージがきれいにたたまれて行儀よく収まっていた。力の加減が、左右の角度が、ほんの少しのバランスが重要なのだ、と橘は思った。そして橘は訊き返す。
「何?」
『だって……修あんた、だからそっちの大学を選んだんじゃなかったの?』
「大学に、いるのか?」
ジャージ、色は――赤、赤にする。赤を選ぶ。肩から足にかけて黒と紺の二重のラインが走っている。
『なぁにあんた、本当に知らなかったの? 母さんてっきり友達になってるもんだと思ってたわ』
「こっちがそいつの地元なのか?」
着る、両腕を通しはおって両足を通してはく。ジャージ(上)のファスナーを閉め、左右の肩を回す。携帯電話は右から左、左から右へとよどみない移動を繰り返す。そして携帯電話は肩と耳の間に収まる。座っている橘は手早く靴下を、履く。立ち上がる、手に携帯電話を持つ。玄関に向かう、台所とユニットバスに挟まれた細い廊下を歩く。耳元では、のんびりと母は言葉を続けている。
『そうねぇ、バンクの方からは転居したって連絡は聞いてないから、高卒で就職したにしろ大学に進学したにしろフリーターやってるにしろ、そっちにいることは間違いないわねぇ』
「名前は?」
『もちろんあんたと一緒よ』
「苗字は?」
『ええ? ちょっと待ちなさいよ、社会保障証に載ってたかしら、』
踏んだ。何か踏んだ。足の裏に違和感。狭い廊下で橘は立ち止まる。
痛い、と橘は思った。靴下を通り抜けて痛みが、生まれる。何が、なにがあるんだ、と橘は思う。だから、足をどける、左の足をどけた。そこには――
『あ、あったあった載ってるわ。ええっと、セイテイって読むのかしら』
「セイテイ?」
『青に石って書いてソコの中を書く漢字』
「ソコ?」
『地底とか海底のソコ、よ』
「そうか、わかったよ、ありがとう」
『あらそう。ものわかりいいこと。じゃあ今度電話してくるときは就職先を教えてちょーだいよ』
「ああ」
『ふむ、まぁあんたはやればできる子なんだから、がんばりなさい、いいわね?』
「ああ」
『でも、何もなくても電話していいからね』
「ああ」
『それじゃあね』
「ああ」
指輪があった。
通話が、終わっていた。橘は携帯電話をポケットにしまう。
橘は指輪を拾う。右手で拾った。握り、ジャージ(下)のポケットに入れた。顔を上げ、正面の扉を見つめ、よし、とつぶやいて外に出た。
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