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 膝頭に触れた。赤ん坊のような橘の右手が、リミの小さな膝頭に届いた。

 瞬間、リミは大きく身を引いた。

 リミ、生形りみはサトミの妹だ。つまり同位体だ。今朝方、アパートに訪ねてきて「おはよう、シュウさん。またお姉ちゃんと喧嘩したんだって?」ドアの影から笑顔を覗かせ、無造作に上がりこんできた。そのことで橘は、今日が土曜日だと知った。リミは高校生/受験生だ。予備校はいいのか、と橘が訊くと、お姉ちゃんの方を優先したいのだ、とリミは答えた。プリーツスカートの裾をひるがえしてずかずかと六畳間を横切ると遮光カーテンを広げ日差しに目を細めると、リミは橘を振り返って「さぁシュウさん、あなたの言い分を私に話してごらんなさい」腰に手を当ててリミはニカッと笑った。赤いプラフレームのメガネがきらめいた。

 リミはサトミが生まれて四年後に生まれた、と橘は聞いている。通例では同位体は同時に生まれ、片方は里子に出される。当然どちらが里子かは当人にわからないよう配慮される。そのあたりは親の自己申告に任されている。もちろん自分の子供はすべて自分の手で育てたい、と思う、そういう親もいる。サトミ/リミの両親もそうだった。その場合は同位体をずらして産む。そしてリミの場合はサトミが生まれてから四年のスパンが開いた。そのスパンは「きょうだい」の年の差としては平均的だった。そしてこの場合でも、どちらもお互いの同位体であることに変わりはない。つまりお互いがお互いを補完しあう、体細胞をバンクにストックして、COMDに備えている。そこに優劣は存在しない。

 橘はリミに説明した。昨日あったことを説明した、脚色もせず感情も交えずただありのままの事実を、リミに伝えた。「それはどう考えてもシュウさんの方が悪いですよ」だから、とリミは言葉を続けた。「謝る練習をしましょう。シュウさんは本当にへたくそですからね」有無を言わせずリミは橘の両手を取って――――目を見開いた。「やわらかい……」リミはつぶやいた。「やわらかいんですね……右手」橘はリミの手を振り解くとパソコンに向かった。リミは向かわせまいとして橘の肩をつかんだ。

 瞬間、橘のバランスが崩れる。それは偶然だった。橘は抗えなかった。リミは見事に橘の体幹を崩した、橘の体勢が崩れた、簡単に揺らいだ、リミに倒れかかった、橘は支えるために手を伸ばした、そこにはリミの膝頭があった、触った、赤ん坊のような右手が、小さな膝頭に届いた。

「悪い」

「い、いえ」

 リミは視線をそらすとメガネを外して、かいてもない汗をぬぐった。

 橘は気がついた。リミは同位体だ。サトミの同位体だ。メガネを外すと、耳からあごのラインがそっくりだった。耳の形もその影にある小さなほくろも同じだった。もしかするとリミも、耳が弱いのかもしれない。ふと、橘はそんな予感を持った。思わず手が伸びていた。

「な、なんなんスか!」

 テレながらも、笑い飛ばすように、リミは大げさにあとずさった。

「いや、似てるなって」

「そりゃ同位体ですから、似てますよ」

 呆れたようにリミは笑った。

「それにうちは『きょうだい』ですから、一緒に住んでるわけですよね」

 橘はうなずいた。

「そうなると外的環境は一緒で、かつ食生活も一緒なわけで、そりゃ似てきますって、ね」

 あごの形とか特に、と言ってリミは自分の頬を押さえて笑った。

 そうか、と橘は思い出す。臓器融解病は遺伝する、しかし遺伝するのは因子だ。それ自体に発病/発現する力はない。では発病/発現を励起する因子とは何なのか。それは環境だ、とする説がある。さまざまな外的環境が促すのだ、とする説だ。それつまり現代の、この地球環境が促しているのだ、という発展させた学説/信仰のもと、現行体制を打開して原始に戻ろうとするテロ組織と本気で宇宙移民を計画している宇宙開発組織が存在していることを、橘は思い出した。そんな大げさな、と橘は今までは思っていたが、リミの話にはうなずける部分もあった。必要条件とはいえないまでも十分条件ではあるのかもしれない。

「さ、そんなことよりシュウさん、練習しましょう。姉さんが家で待ってます」

「どうして?」

「別にシュウさんのためにやってるわけじゃないですよ」

 上目遣いでリミはにやりと笑った。

「いや別に」

「ふふ、わかってますよ。もちろん姉さんの、お姉ちゃんのためです。だって私たちって同位体きょうだいですからね」

だから、とリミは言葉を続けた。

「助け合うんです」

 まっすぐ、実に正直にリミは橘を見つめた。橘の視線の先、サトミと同じ/違うリミの目がそこにあった。

「……そうか」

「そうです」

 ニカッとリミは笑った。

「だからほら、シュウさん、」

「明日の朝、家に行くよ」

「……本当ですか?」

「ああ」

 むー、と唸ってリミは言った。「わかりました。シュウさんはこういうことでは嘘はつきませんもんね」忘れることはあっても、と言ってリミは舌を出した。

「でも、どうして今日じゃないんですか?」

「やることがある」

「レポートですか? 大変ですね」

「なら、手伝ってくれ、調べ物だ」

「いいですよ」

「そうか。残念だ」

 きょとんと、リミ。

 不意に合点がいったという表情で、「あ、えっと、やってもいい、です。予備校サボっちゃったから、どうせ夕方まで暇だし。その代わり今度、お昼おごってくださいね」

「わかった」

「で、何を調べるんですか?」

「おとといの、駅前であったスーサイドだ。誰が飛んだか、調べてもらいたい」

「なんだ、レポートじゃないんですね。まずいかなぁ……お姉ちゃんには内緒にしてくださいよ、バレたらうるさいですから、あの人」

 橘はうなずいた。

「じゃあ友達に訊いてみますね。わかったらすぐに連絡します」

 それでは失礼しました、と一礼してリミはアパートを飛び出していった。

 あの性格で笑顔も絶えないしフットワークも軽い。友達も多いのだろう、と橘は想像する。だからこそ頼んだのだが、とも橘は考える。高校生のネットワーク/地元のネットワークは足で稼ぐ情報網だ。橘の持ち得ない情報網ネットワークだ。橘はどこかで確信していた。リミなら見つけてくるはずだ、と確信していた。

 アパートのドアが爆ぜるように開いた。

 リミだった。

「言い忘れてました、さっきの、明日の朝うちに来るの、ちゃんとお姉ちゃんにメールしといてくださいね。あとっ」

 大きく息をついて、リミは言葉を続けた。

「ちゃんと謝る練習、しておいてくださいね」

 では今度こそ、とリミは駆け出していった。

 言われたとおり橘は携帯電話を取り出しながら、それとは別の目的で電話をかけながら、リミの力強い背中を見送った。

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