8

 その夜、夢に父が出てきた。橘の父親だ。橘が大学に入学した年の夏、死んだ父親だ。夢に出てきた父は母の制止を振り切って病院の屋上から飛び降りた。何度も何度もそのシーンが繰り返された。父は何度も何度も地面に叩きつけられた、そういう夢だ。

 しかし実際は違う。

 橘が高三の秋、父の同位体が事故死した。単純な交通事故だった。車と車がぶつかって片方のエタノールに引火して両方とも炎上したのだけれど当てた方のドライバーは助かって父の同位体はあっけなく、焼死した。

 バンクのストックはあっという間に底をついた。

 父は患者だった。先天的な疾患、COMD/臓器融解病の患者だった。定期的に移植を行うことで父はそれを防いでいた、生き延びていた、生きていたのだ。

 父は生きる術を失った。

しかし絶望しなかった。

 父はすぐに医療企業体と検体/献体の契約を結んだ。この契約によって橘は大学に進学しても卒業できるようになり、母はパートだけでも食べていけるようになった。そして父は死ぬ前から身体を切り刻まれることになり、死んだ後も母と同じ墓に入ることはできなくなった。

 その年の冬、父は定時に退社するようになり企業体つきの研究所/医療施設で残業するようになった。するとただでさえ少なかった食事の時間が減った、三人の時間が減った。「家族の時間」というものを重要視していた母の愚痴が増えた。ふたりでの食事中、橘は母の言葉を黙って聞いていた。聞くことしかできなかった。

 橘が受験の追い込みに入った頃には、父は完全に通勤先を会社から研究所に変えていた。

 しんしんと冷え込む朝、橘が朝食を摂ろうと台所に入ると、父が背を向けて新聞を読んでいた。母は流しの方を向いて、橘の弁当を作っていた。

 新聞から顔をあげて父は言った。

「おはよう」

 橘はうなずいた。待ち構えていたな、と橘は思った。父は自分が起きだして来るのを待っていたな、と橘は思った。

「大丈夫そうか?」

 何気ない調子で父は言った。向かいの席に着き、橘は父を見た。父は新聞を読んでいた。

「うん」

 橘は声に出してうなずいた。父は静かに笑った。

「そうか」

 父はテーブルの上に手を置いた。テーブルが鳴った。硬質な音だった。父は手を滑らして橘の前にそれを突き出した。

「お守りだ」

 父が手をどけた。それは、白。小さな塊がテーブルの上にはあった。橘はうなずいてそれを拾い上げた。白く小さな塊、思いのほか軽く、硬い――石とは違った硬質さを備えていた。既視感。どこかで見覚えのある、白さだった。橘は静かに学生服のポケットにしまった。

 その時、橘は気がついた。

 テーブルの上には橘の弁当の材料しかなかった。湯気の立つコーヒーもマーガリンが塗られたトーストもベーコンを下地にした目玉焼きも、テーブルの上には載っていなかった。

 父の食べるものは何もなかった。父は何も食べていなかった。

 橘はポケットの中の白い塊を、強く握った。ぎゅう、と握り締めた。

 母はすでに了解しているようだった。トーストを焼きコーヒーを淹れ目玉焼きを焼いて、橘の朝食を用意した。橘の分だけ用意した。

 右手だけで、橘は朝食を食べた。左手はポケットの中だ。行儀が悪いと母が叱責し、まぁまぁと父が静かになだめた。

 その日以降、橘は父と食事することはなかった。

 橘が大学に進学して一人暮らしを始めるのを待っていたように、父は入所した。橘はアパートに、母は祖母の家に、父は研究所へとばらばらになった。それから橘は父に会わなかった。いや正確に言うと会うことができなかった。父が嫌がった。父は家族が研究所に見舞いに来ることを、家族に身の回りの世話をさせることを嫌がったのだ。それは橘だけでなく母も例外ではなかった。

 だから橘が思い出す父の姿はあの朝の、橘の言葉を聞いて静かに笑った、あの姿だ。だから橘は知らない、父が朽ちていく姿を。ベッドの上で無数のコードに繋がれ、多くの研究者からその様子をモニタされて、ただ死を待つだけの姿を、橘は想像するしかない。その想像の中で、父は生気のない目をしている、頬はこけ、髪のつやは失われている。

 しかし実際はわからない。それは橘の想像でしかないのだ。

 だから、夢だ。だから、と橘は考える。だから父は屋上から飛び降りるんだ、と橘は考える。目に見えるかたちで目の前で母の制止を振り切って泣いて叫んで死ぬんだ、と橘は考える。父は死んだんだ、と橘は考える。

 あの人、と父が死んだ次の日、母が教えてくれた。私になんの相談もなしに契約してきて「もう大丈夫だ」って見たこともないような笑顔で言うのよ、私あきれて何も言えなくなっちゃった。修、あんたもそういうところあるから女の子を泣かせちゃダメよ、そんなとこは似なくていいからね、と母は笑って橘の頭を撫でた。母の手を、自分を子供扱いしたその手を、橘は払いのけることができなかった。話を聞くことしかできなかった。「ああ」だから、橘は声に出してうなずいた。左手はポケットの中、白い塊を握っていた。

 そう、そして橘は先天的臓器融解病(COMD)のキャリアだ。保因者だ。その因子は父から母から橘へと遺伝した。いずれ――近いうちかまだ先かはわからないが橘は確実に発病する(ちなみに橘の父が発病したのは二五歳の時だった、もし父と同じ年齢で発病するというのならあと三年後だ)。だから慣れておこう、と橘は考えた。今のうちから移植することに慣れておこう、と橘は考えたのだ。COMDからは逃れられない、慣れておかなければならない、身体を失うことに。

 闘う。橘は闘うことを選択した。それが現在在籍しているサークルだ。オサムが師範代を務めるサークルだ。オサムは宗家の息子だった。だから橘よりも強くテクニカルで経験も豊富だった。サークルに入りたての、基本動作もままならないもっとも最初に、橘はオサムとのスパーリングで右肩を失った。右肩を破壊された。オサムに投げられた瞬間、右腕が構造的に曲がらない角度を向いて「へぇ」と思った瞬間、目の前が真っ白になった。あとでそれが「痛み」で意識が焼き切れる瞬間だと、橘はオサムから教わった。白は、真っ白になった視界は網膜にではなく、首筋に残った。閃光が首筋に焼き付いた。痛みが、焼き付いた。

 これが最初の移植だ。その時、橘は処置痕を残すよう、医師に言った。記念だね、医師はうなずいた。今の若い人の間ではそういうのが流行っているのかい、と快活に医師は笑い、橘の要請をこころよく受け入れてくれた。これが最初の移植にして最初の記憶だ、刻まれた記憶だ。

 その処置痕/ミミズの這ったような肉の盛り上がり/鮮やかなピンク・ラインが、橘の右肩に複雑な道路地図を広げた。幹線道路ラインもあれば舗装されていない農道もあった。そこに、橘の右肩に確かにあったのだ、意味を読み取ることのできる痕が、記憶が。

 しかし今はもうない。橘の右肩にはその地図は存在しない。

 欲しい、と言った女の子にあげてしまった。皮膚移植だ。うまいことに拒絶反応がでない関係だった。背中のきれいな女の子だった。その背中に地図が広がった。記憶が刻まれた。女の子はうれしそうに「ありがとう」と言って、二日後に姿をくらました。それ以来彼女には会っていない。探してもいない。そんなに珍しいことじゃない、とも橘は思っている。特に恋人同士なら同じ傷を欲しがったりする。だから橘は、あげてしまった。大学一年の春も終わる頃だった。そして梅雨が来て――その中休み、橘はサトミと、生形さとみと出会う。

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