7


 十二時を回っていた。練習を終えた橘がバンクに寄ってアパートに着いた頃には、午前0時を回っていたのだ。

 橘の部屋は二〇五号室。つまり二階の角部屋だ。常夜灯に照らされたドアの前に人がうずくまっていた。橘の気配に気がついて顔をあげた。サトミだった。「どこに行ってたの?」「すまん移植銀行バンクだ」「どうして連絡してくれなかったの?」「すまん電池が切れてた」「今度はどこよ?」「右手」「なんで?」「師範代に潰された」「もうやめようよ」橘は返事をせず部屋にあがった。電気をつけリュックを下ろしパソコンを起動する。座椅子の角度を調節してネットのショートカットをクリックする。「どうした、入れよ」橘は外に立ったままのサトミに向かって、言った。

 返事がない。

 橘はディスプレイから顔をあげた。

 サトミは首を振っていた。長い髪が、自慢の黒い髪が、色を変えることをよしとしない髪が、さらさらと左右に揺れていた。

「帰るね、これ日持ちしないから食べてね」

 玄関先に白い箱を置いてサトミはドアを閉めた。近所のケーキ屋の箱だった。

 橘は視線を戻す、ラップトップのディスプレイへ視線を戻す。ディスプレイにはネットのブラウザが表示されている。スーサイドのサイトだ、ロムが集まって情報を交換する掲示板サイトだ。サイトの名前はスーサイド・ヒューマンズ、だ。トップ絵には線画の人間が何度も何度も何度も何度も地面へと落下するフラッシュが貼られている。

 橘は自分で立てたスレッドを覗き見る(ブラウズする)。昨日の、本気のスーサイド/自殺についてのスレッドだ。新しい書き込みが一〇件ついていた。

 アパートのドアが爆ぜるように開いた。

「なんで追いかけてこないのよ!」

 顔を覗かせたサトミが大声で叫んだ。目じりには涙がにじんでいる。

「静かに開けろよ」一瞥して橘は低くつぶやいた。「他の人にメイワクだ」

叩かれでもしたように、サトミの身体が震えた。

「ねぇなんでそんなに落ち着いているの? 私たち喧嘩したんだよ?」

 ラップトップのディスプレイから顔を上げて橘は首をかしげた。

「いつも、どうせ戻ってくる」

「いつも?」サトミの声は震えていた。

「そう、いつも。俺に追いかけてもらいたかったら、もう少しバリエーションを増やしたほうがいい」

 サトミは首を振って、言った。ストレートの長い髪が左右に揺れた。

「それ、本気で言ってるの?」

「ああ。建設的だと思う」

 橘はうなずいた。

 ああ、とサトミは叫んだ。思い切り地面に叩きつけた。指輪を、指からすばやく抜いて、叩きつけた。きぃん、と甲高い音が響いて、指輪が跳ねた。

 アパートのドアが激しく叩きつけられ、閉じた。サトミが飛び出していった。

 橘は自分の立てたスレッドをブラウズしている。

「静かに、閉めろよ」

橘はポケットの中で拳を握った。一〇件のレスに、めぼしい情報はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る