第13話 プロローグ 4 先駆的な養護施設にできた銭湯

 川崎ユニオンズが結成され、解散を迎えたという岡山市は、2009年に政令指定都市となり、現在人口約70万人。中四国の玄関口として、とりわけ、鉄道の拠点として繁栄している。


 このユニオンズが解散を迎えた岡山県営球場の近くには、かつて、「孤児院」と呼ばれていた施設があった。戦後すぐに「孤児院」は「養護施設」に、さらに平成の半ばには「児童養護施設」へと法令上の名称を変更されて現在に至っているのだが、ユニオンズが解散した1957年当時、すでに法令上は「養護施設」となっていた。

 とはいえまだ、戦災孤児を収容していた時期であり、「孤児院」という名前も、世上の会話のワードとしてだけでなく、その実態を示す言葉としても、まだまだ実感を込めて語られていた、そんな時代であった。

 戦争が終結したのがちょうど1945年。その年に生まれた子どもがちょうど12歳。戦時中に生まれたそれより少し年長の子どもたちが、丁度、中学生か高校生の時代である。


 岡山県営球場の近くにあった養護施設は、「よつ葉園」といい、1936年12月に創立された。戦災孤児や貧困家庭の救貧対策として、岡山市の練兵場の近くの地に木造の長屋のような建物を建築し、子どもたち(法令上は「児童」ですが、ここでは原則として使用しません:注)を収容し、育てていた。

 1945年6月29日の岡山空襲こそ免れたものの、その3年後、火災のため園舎を焼失、その後再建した。

 初代園長には、当時岡山市議会議員を務め、戦時中には岡山市長も務めた古京友三郎が就任、1952年の彼の死去に伴い、主事として実質的に施設運営に携わっていた森川一郎が園長に就任した。よつ葉園は、当時から岡山県内外の他の同種の施設と比べても、先駆的な取組をすることで定評があった。

 ユニオンズが解散した1957年2月初旬、よつ葉園は銭湯機能付きの浴場を完成させた。当時はまだ、家庭風呂が完全に普及しきっておらず、津島町近隣には銭湯がなかった。

 折角子どもたちや職員らが多数利用する風呂であるなら、運営費の足しになればという思いもあって、後援会的な組織を作ってそこで回数券を配り、また、会員でなくても格安で風呂に入れるような価格設定にし、その入浴料をもって運営費の足しにできればという考えから、そういうつくりにされたわけである。

 このおかげもあって、この白亜の建物の建設費は約5年で償還でき、その間も含めてその後しばらくにわたり、養護施設よつ葉園の運営費用を幾分潤すことができた。


 その後よつ葉園は手狭になったことなどを理由に、1981年5月下旬、現在の中央区津島町から現在の中区の丘の上へと移転していった。

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