第12話 プロローグ 3 創立から「解散」まで
川崎ユニオンズは1954年2月1日、キャンプ地となる岡山市内の旅館で結団式が行われた。
なぜこの球団ができたのかというと、パリーグはそれまで7球団で運営されていたのだが、これでは試合のできないチームが1球団出てしまい、日程調整に支障をきたすことになるから、その弊害を解消し、併せて球団を増やすことで野球ファンの拡大を図ろうという意図があった。
その球団結成にあたっては、ラッパと呼ばれるある野球好きの映画人で自らも京映スターズという球団のオーナーを務めている人物が、川崎龍次郎という財界人にして政治家でもある御老体に声をかけ、何とか新球団を運営してもらえるようにしたものの、新球団を運営する側にとっては、ただでさえ金がかかりすぎるうえに、結成にあたってのラッパ氏との約束を反故にされるようなことも少なからずあり、球団運営には困難を極めてのスタートとなった。
選手層もお世辞にも熱いとは言えないどころか、他球団ですでに峠を越したベテラン選手と一部の有望とはお世辞にも言えない若手選手たちで構成されていた。これで優勝どころか高順位を目指せるわけもない。それでも、1年目は8球団中6位という成績を確保できたものの、2年目、3年目と8球団中8位で、もはや「球界のお荷物」どころか、「球界の孤児」とまで言われる始末だった。
そして4年目、1957年(昭和32年)3月6日、例年通り岡山でキャンプをしていたその矢先、パリーグのオーナー会議の結果、8球団から6球団にしていくべく、まずはこの川崎ユニオンズが京映スターズとの「合併」がなされることとなった。しかしそれは、「球団解散」と言っても同然の処置であった。
この球団のオーナーを務めた川崎龍次郎は、当時すでに82歳。球団解散の1年後に行われた総選挙では、自らの下で書生として苦学して早稲田大学を卒業し、その後秘書をしていた長崎弘という同郷の若者を後継に立て、政治家を引退した。
川崎翁はそれから10年後の1967年に92歳でこの世を去った。それからもう、半世紀が過ぎてしまった。
この頃まだ若かった選手たちでさえ、当時の川崎オーナーと同年齢どころか、亡くなった年齢を幾分超えた人もいる。そして、すでに亡くなられた人もたくさんいる。
この球団があったことを知る人は、今や、相当の野球ファンか、何らかの事情でこの球団のことを知っている人たちぐらいだろう。
それこそ、毎週日曜日の朝、プリキュアを観ている子どもたちは言わずもがな、一緒に見ているお父さんやお母さん、さらにはおじいさんやおばあさんたちの中で、いったいどれだけの人が、かつて川崎ユニオンズなんて球団があったことを知っているだろうか。
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