第9話 特別二等車へ出頭せよ

 名古屋を出てしばらくしたら、ある若者が私たちのいる席にやってきたのよ。


 彼は井元四郎君という投手で、名古屋出身の若者だった。地元球団の中日に入ったはいいが、あまり出番に恵まれないので、この際ユニオンズに移籍すれば登板機会も増えるだろうということになったそうな。あの年中日は杉下投手の大活躍で日本一になったでしょ、そんな選手層の厚いところでは、彼のような若手は出る幕ないわ、そりゃあ、ってこと。それで、前日に無償トレードが決まって、この列車でユニオンズの一行と合流することになっていた。

 井元君は中日球団さんから特別二等車の切符をもらっていてね、名古屋に着いてしばらく自分の席にいたのだが、ふと車内を見渡すと、スタさんとか、浜中監督とか、どこかでお見掛けしたような人たちがいるから、ユニオンズの選手の皆さんはどこですかと聞いたら、三等車に乗っていると言われて、さすがに、先輩方を差し置いて特別二等車に乗るのも気が引けますので三等車に行ってきますと言って、それで、こちらにやってきたってよ。

 ちょうど、列車が木曽川を過ぎた頃だったと思う。

 たしかあの頃、国鉄の蒸気機関車、ああ、C62の17号機というのかな、それが、狭軌最高速度の129キロを達成したのが、あの木曽川橋梁あたりだったな。あの橋を渡る頃、なんか、変な胸騒ぎがしたなと思っていたら、彼が来たってわけだ。

 

 どなたか先輩、二等車にどうぞなんて彼が言うものだから、ベテランの中内さんに、どうぞと私がおすすめしたら、同期の笠岡君を差し置いていくわけにもいかん、って。じゃあ、中内さんと同じ年でもう一人の最年長選手の笠岡さんにどうぞと言おうと思っていたら、笠岡さん、こちらの機先を制して、おっしゃるわけよ。

 「長崎君、君は二等車に乗ったことはあるか?」

 「いえ、ありません」

 「川崎のおじいちゃんの秘書をしていたときにも、か?」

 「はい。私は川崎と同行することがなかったですからね」

 「そうか、わかった。長崎君、これも「現場研修」だ。君が行きなさい」

 「私が、ですか?」

 「まあ、浜中さんの話し相手になってやってくれよ。それに第一、君はいずれ政治家になって、国会議員のパスで全国を飛び回らなければいけなくなる身だ。今から二等車慣れしておいても、損はないだろう」

 ここで中内さんが、助け舟を出してくれた。

「笠岡の言うとおりだ。今から特二ぐらいで怖気づいてどうする。貴様それでも日本男子か・・・、とまでは言わんが、卑屈になることなんかない。君は堂々と、胸を張って特別二等車とやらに乗って、ここから先岡山まで行きんさい。この際、あのリクライニングシートというのか、あの背もたれを思いっきり倒してふんぞり返るぐらいして岡山入りするぐらいで、ちょうどよかろう」

 

 結局、特別二等車に乗ってこれから先、岡山までを移動することになりました。実はそのときが、私にとっては初めて二等車、それも特別二等車に乗った日でした。若手選手と話しながら行こうと思っていて、東京からそんな調子で旅路についていた私には、監督経験のあるお二人、そのうちお一人はなんといってもタイガースで2度も優勝された方と来ている。

 そんな人たちのそばに行くのかと思うと、正直、緊張したよ。


 私が特別二等車に乗るのが初めてと聞いた若手選手の誰かが、言いましたね。

「じゃあ、出征兵士の歌で、長崎さんの壮行会をしましょう」

って。あれは、青野一郎君だったな。

 香川の高校を中退して南海に入ったけど、キャッチャーがいささかあふれ気味だし、ユニオンズなら出場機会もあるだろうということで、無償トレードでこの1月の半ばにユニオンズ入りが決まった選手だ。他に中卒とか高校中退の選手はいなかったから、彼がそのときのユニオンズの最年少選手ってことになるね。香川のうどん屋の息子で、なかなか、いい奴だった。

 「おい青野、無茶言うな。別に戦争に行くわけじゃないからやめてくれって」

と言ったけど、無駄な抵抗だったね。

 兵後さんが、まあそう言いなさんなって。

 追い打ちをかけるように中内さんがおっしゃるには、こうだ。

 「では、あの歌で行こう。ああ紅の血は燃ゆる、だ。兵後、音頭を頼む」

 「わかりました。それじゃあ、みんな、行くぞ!」

 「おう!」

 兵後さんが音頭を取ってみんなで歌って、誰かが持っていた酒の一升瓶を回し飲みして、というか、お神酒代わりに、名古屋で買った駅弁のお茶の湯飲みに入れて飲まされた。

 「よし、それでは、早稲田大学同窓生・長崎弘君の、岡山までの武運長久を祈る。これは、召集令状と称する赤紙ではないが、度胸試しの青紙である。これをもって、直ちに特別二等車に出頭したまえ」

 そう言って、笠岡さんは井元君から受け取っていた青地の切符を、それこそ赤紙代わりに仰々しく渡してね、特別二等車に送り出してくれたのよ。


 「長崎弘君、万歳!」

 「万歳!」

 「万歳!」

 

 周りに迷惑のかからない程度の声でかけられる、皆さんの万歳の声を背に、荷物と一緒に名古屋で買った弁当とお茶をもって、私は特別二等車に移動したのよ。

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