第7話 野球の仕事をしてくれるか

 あれは確か、昭和28年の秋口、10月か11月頃のことだったと思うが、正確な時期は覚えていない。いずれにせよ、私は当時、川崎龍次郎の秘書をしていた。

 ある日私は、議員会館の応接室に座らされ、川崎から言われたのよ。

 

 「弘、おまえはいずれどこかで選挙に出る気はないか?」

 「ええ、あります。ですが、国会議員までなれるでしょうか?」

 「国政をやりたいのか?」

 「はい。愛媛にはずっと帰っていませんから、県政や市政でと言われても、何だか、やる気がもう一つおきません。かといって、東京で区議や都議をやるというのも、もう一つ気乗りしません。愛媛との縁を切りたくはないですが、かといって、愛媛に戻り切ってしまうというのも、何だか気が乗りません」

 「そうか。それなら、国政をおやりなさい。いずれ私も、後継を出さねばいかん日が来る。高齢だしな。その際の後継者として、実は兼ねて、おまえを考えていた。うちの息子や孫は、誰も政治には興味がないからね。しょうがないよ。でも、おまえが継いでくれるならありがたい。実は、そのつもりで、私はおまえを秘書にしているのだ」

 「そうですか。ありがとうございます。今後もっと頑張っていきます」


 旧制中学時代から目をかけていただき、学費も全面的に援助してもらい、東京まで出てきて、早稲田大も卒業できたのは、川崎龍次郎のおかげであることは重々承知しているが、まさか、自分がその後継として目をかけてくれていたとは・・・。

 でも本音、これで一生食いはぐれはないなと、安心している自分があった。

 しかも、国会議員ともなれば、それなりにうまい飯も食えてうまい酒も飲めるだろう。そんな下心ともつかぬ思いも浮かんできた。

 そんな私の心境を見越してか、川崎は、突如、こんな申入れをしてきた。


 「だがその前に、弘には一つ、やってもらいことがある」

 「何ですか?」

 子どもがお菓子をもらう前に、与える大人が少しばかり説教がましいこと言うじゃない。川崎は基本的にはそういうことはしない人だったけどね。このときはなぜか、壮大な説教でもあるのかなと、そんな予感がした。

 「職業野球チームの職員じゃ。マネージャーとも言う」

 「野球チームのマネージャーですか・・・」

 川崎がプロ野球のチームを持つことは、この時初めて聞かされた。しかも、野球経験のない私に、球団の職員をやれというのは、どういうことなのか、政治家としての修行をしているのに、なんでまた、政治の世界とはどう考えても関係があるとは言えないプロ野球の球団の仕事をしろというのだろうか。


 川崎は、来年よりパリーグに加盟するプロ野球の球団を設立することになった経緯を、淡々と、私に話してくれた。ラッパさんという、あなたもご存知の京映スターズのオーナーで、映画会社の代表がいたでしょ、彼からのかねての依頼というわけだ。ラッパさんは情熱的な人だったけど、川崎は、好々爺と言われるぐらいだから、いつもにこにこしていて、話ぶりも、淡々としたものだった。


 「代表はうちの息子の勝治、補佐として、太平洋野球連盟から小鶴隆男君を招くことになった。ついては、長崎弘君には、代表補佐付のマネージャーをやってもらいたい。政治家になるべく秘書を続けたうえで代議士になっていくのも大いに結構であるが、何年か、違う世界を見てくることも悪くはないだろう。そう思って、おまえを球団に送り込ませようと思った次第じゃ」


 まあ、自分の事務所の親父に言われちゃあ、しょうがないか。受けざるを得まい。

 「ですが、おじいさん、私、野球経験なんかないですよ。野球に関わる仕事をしたこともないですし、本を書いたわけでもないですよ」

 「そんなことはわかっている。だからこそ、やって欲しいのじゃ」

 この後川崎は、なぜ私がプロ野球チームのマネージャーをやるべきかを、じっくりと説いてくれた。

 

 軍隊経験もあり、旧制の中学や職業学校で学んだベテラン選手あたりはまだしも、これから入ってくる、あるいは今プロ野球に入っている若い選手の中には、学生時代、野球ばかりやってきた者も少なからずいる。

 だが、野球選手としてやっていけるのはそう長い期間ではない。何より、野球選手である以前に、彼らは私たち同様、社会人である。そうだろう。野球をやめても、彼らは野球以外の世界でも、社会人として生きていかなければならない。そうなったときに彼らが困らないように、おまえには、若い選手たちの社会人教育もして欲しいのじゃ。野球経験のある人間ばかりでは駄目だ。野球経験のないおまえだからこそ、プロ野球の世界でできることもあるはずじゃ。

 もちろん、事務所では、経理や営業などの仕事をやってもらう。新球団なので人はあまりいないからね、いろいろ、やってもらうことになると思うが、それはすべて、おまえの将来のためだからね。もちろんおまえに野球をせよなんて、言わないよ。もしおまえに野球の素質があったなら、やらせてあげないでもなかったが、そこまでの素質はどう見てもなかったし、何より、おまえ自身も野球をすることに興味を示さなかったからね・・・。


 ここまで言われたら仕方ない。謹んで、お受けすることにしたよ。

 

 翌年の昭和29年1月下旬、私は、東京の球団事務所に行って、その後、川崎とともに都内のあるレストランに向かった。この後すぐ夜行列車で岡山に向かい、そこで約1か月間、キャンプをすることになっていた。浜中監督とコーチ、選手の皆さんがすでに集まっていた。簡単に食事をした後、私は、みんなの前で言ったのよ。


 「今日これから東京駅22時30分発の急行「せと」で岡山に向かいます。つきましては、皆さん一人一人に切符を配ります。くれぐれも、なくさないように」

 それで、一人ずつに、切符を配っていった。


 私が切符を配り終えた後、勝治代表が一言、みんなにあいさつをされた。

 「諸君には大変申し訳ないが、わが球団には正直、金がない。監督とコーチ各位は二等車に乗っていただくが、選手諸君については、契約上二等車に乗ることになっている者を除き、三等車で移動していただきます。シーズン中の移動も、基本的にはそうなります。本当に至らなくて申し訳ないが、御了承ください」


 それでも、周りからは取り立てて不満は出なかったね。終戦後しばらくの間、三等車の通路で横になって移動していた時期を経験しているベテラン選手も、入団したての何人かの若手も、そんなことでは文句を言わなかった。かくいう私も、三等の切符をもらった。川崎の同行で移動する秘書は二等車や一等車にも乗れたが、それまで私は、川崎に同行しての出張はなかったから、当然、三等車での移動が普通だったので、二等車なんて乗ったためしもなかった。

 大体、そんな金があれば、飲み食いでもした方がいいと思っていたクチだった。

 新幹線のグリーン車に乗ってきて言うのもなんだが、当時はまだ、若かったからね。

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