第2章 特別二等車への「出征」 ~ これも、現場研修

第6話 老政治家の依頼

 2019年10月の某日。岡山駅の下り新幹線ホーム。もう少しで、列車が入ってくる。

 私は、8号車の乗降口付近で、人待ちをしていた。

 ホーム扉の向こうの二本のレールの間には、今も、排水設備が残っている。かつてここで、食堂車の排水を行っていた時代の名残である。

 現在、この位置には、これから来る列車のグリーン車が停車する。

 やがて、東京方面から列車が入ってきた。かつての排水溝をまたいで、グリーン車がその位置に泊まった。すでに新大阪まででほとんどの乗客がおりていて、列車はさほど混んではいない。そしてここでまた、岡山に用事のある人や帰ってきた人たちだけでなく、これから乗換えて各方面に行く乗客たちが降りていく。逆に、これから乗る人は、それほど多くはない。今日のこの列車には、この8号車にこの岡山から乗車する客は一人もいないようだ。


 ドアが開くとすぐに、一人の身なりの良い高齢の男性が降りてきた。その後ろから、私より少し年長と思しき男性が降りてきた。この人が同行者のようだ。


 「おお、米河君、呼び立てて済まないね」

 「長崎さん、お疲れ様です。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 この男性は、長崎弘氏。

 元衆議院議員で、大臣経験もある方。御年90歳。すでに白髪ばかりだが、小奇麗に散髪されている。最近でこそペースが落ちたようだが、かつては1週間に一度のペースで散髪されていたという。そして、セルロイドの丸眼鏡に、グレーのダブルの二つ掛けの品の良いスーツ、そして白のダブルカフスのワイシャツに赤の蝶ネクタイ。杖をお持ちではあるが、それほど使うことはない。左手には、アタッシュケース。遠目に見ても明らかに、この人だと分かるほどだ。この人、かつてはこのスタイルで政治家をされていたわけだが、そりゃあ、さぞかし目立っただろう。もっとも、私も人のことは言えない。髪はまだ黒いがやはり短髪、セルロイド系の丸眼鏡に、紺のダブルのスーツ、ダブルカフスの丸襟のワイシャツで、青系統のストライプ柄の蝶ネクタイの端は襟に入れている。左手に、今日の資料を入れたビジネスバッグを持ってはいるが、右手は手ぶら。


 「あ、米河さん、長崎がお世話になります。よろしくお願いいたします」

 「川崎龍志さんですね。はじめまして。米河です。どうぞよろしくお願いいたします」


 同行者の川崎氏は、現職の衆議院議員。

 父方の祖父は、川崎龍次郎氏。ビール王と言われたほどの実業家で、後に事業を息子の一人に譲って政界に進出、戦前から戦後にかけて衆議院議員を務めた。篤志家でもあり、故郷の愛媛県の貧しい家庭に育つ優秀な子どもたちの進学にも力を貸していた。裕福でない蜜柑農家の息子だった長崎さんも、川崎氏に目をかけられて、旧制中学から早稲田大を卒業するまで、学費の面倒などを見てもらっていた。長崎さんは学生時代、川崎氏宅の書生をして大学を卒業し、その後川崎氏の秘書となり、後に川崎氏の後継として衆議院議員になり、国務大臣も歴任した。

 引退後は、自分の家族には誰も継ぐ者がいなかったので、川崎氏の曽孫である川崎龍志氏にその後を託し、引退してすでに20年近くになる。


 今日あなたにお話ししたいのは、政治家時代の話ではない。私の青春時代のお話をお聞きいただきたい。といっても、愛媛の少年時代でも、学生時代の話でもない。

 あの4年間のお話を、ぜひとも、小説家として名を挙げているあなたにお話ししておきたいのだ。あの4年間の思い出を、できれば、一冊の本にまとめあげて欲しい。

 もっとも、あの4年間を知っている人は、どなたも高齢だ。お世辞にも先は長くない。私も同じだが・・・。


 岡山駅前のホテルのラウンジで、私は、長崎さんからの依頼を受けることになった。その依頼とは、長崎弘氏がかつて、川崎龍次郎氏の命により、わずか3年間だけ存在したプロ野球球団「川崎ユニオンズ」のマネージャーをしていた頃のことをまとめて、本にしてもらいたいというものだった。

 私が長崎さんにお会いしたのは、今日で2度目だ。


 「こちらこそ、よろしくお願いいたします。あの座談会の後、まさか、このような形で私が主体となって取材をするということになるとは、思いもしませんでしたよ」

 「米河さんのおっしゃる座談会の後、長崎が私を呼び出しましてね、ぜひ、あのユニオンズでの経験を誰かに語っておきたいと申すものですから、さあ、どうしたものかと思っておりましたら、米河さんがその座談会に参加されていたことをお聞きしまして、小説とノンフィクションはいささか違う分野かもしれないが、ぜひとも、米河さんに書いていただければと思いましてね、それで、このような形での取材をお願いした次第です」


 川崎さんが、事の次第を説明してくださる。


 「そうですか、実は私、確かに小説を書いておりますけれど、そのためのネタ仕込みといいましょうか、それも含めてですけれども、小説を書こうと思い立つ以前から、ノンフィクション系の本は多く読んでおりました。今度は書く側に回ってみろとのことで、お話を伺って、それじゃあやってみようという気になっております。あまりやる気がありすぎるのも困りものかとは思いますが、できるだけ、はやる気持ちを抑えてがんばります」

 「それは結構な心掛けだ。政治家でもなんでもそうだが、やりたい! やりたい! とね、それが周囲にまるわかり、なんて人がその仕事に就くのは、もちろんいい場合もなくはないが、えてして、よくないパターンも多い。むしろね、自分はさしてやりたくないのだが、お願いされたから引受ける、なんてパターンのほうが、後々良い方向にいくことが多いように思う。私の経験上もね。実は私の後継を決めるにあたっても、やりたいと言ってきた人は何人かいたが、正直、この人は大丈夫かという人が多かった。この川崎君は、私がお世話になった川崎龍次郎の曽孫にあたる人だが、ご本人は、正直あまり政治家なんてやりたくないと言っておられた。だが、子どもの頃から見ていて、彼には政治家の素養は随分あるなと思えたし、何といっても川崎の曽孫さんということもあるし、彼の父親からは、長崎さんの御家族に誰かおられないのですかと言って暗に断ろうとされていたけど、うちの家族にしても、誰一人やりたいと言わない。そこで、私が彼の父親を説得して、何とか、なってもらえた次第だ。彼は、よくやっていると思うよ」

 

 私が小説家になろうと思ったのは、岡山に戻ってきてからだ。思うところあって、しばらく隣の兵庫県明石市に住んでいたが、岡山県内のいろいろな人たちから、戻って来てくれという声が多くなって、結局3年ほど前、岡山市内に戻ってきた。

 岡山に戻ってからは、求められた仕事をしているうちに、なぜか、これまでのいろいろな経験をどうにかして人に向けて表現したいという思いが募って、最初はノンフィクションで行こうかとも思っていたが、取材する時間があまりにないので、それならまずは、今までの経験をもとに、それをフィクション形式にして小説を書いてみようと思って、書き始めた。2年近く書いて、ようやく編集者の目に留まり、昨年冬に、ようやく出版の運びとなった。今年は5月まで一斉地方選挙があったために、頼まれた短編などの他は、あまり書くことができていなかったが、選挙が終わった5月の末頃より、再び書くことに本腰を入れている。そんな折に、ノンフィクションを書いてくれという依頼が来たわけだ。これは実にありがたい。それも、私のいた養護施設と交差していたあの川崎ユニオンズがらみの話ではないか。


 長崎さんが、話を続ける。

 

 いいかね、米河君、これは、ぜひとも、あなたに書いてもらいたい。

 いや、あなたでないと、書けない話であると思っている。

 あなたはよつ葉園という養護施設で、随分と嫌な思いもされただろう。当時の職員や児童福祉の現実に、怒り、涙をのんだことも幾度となくあったであろう。煮え湯を飲まされたり、冷や飯を食わされたりするような目に遭ったこともあったろう。

 「孤児扱」で養護施設に6年間、いろいろあったとは思うが、その施設や当時の関係者に対する不信感や怒りを乗り越えて、あなたは小説家になった。そういう人にこそ、私は、ユニオンズのことを書いてもらいたい。

 あなたが小説家であると、あの座談会の前に元内野手で洋菓子屋の会長をしている西沢君やあなたもご存知の大宮君からも聞かされて、ひょっと米河君なら、この話を書けるのではないかと思った次第だ。改めてお願い申し上げたい。ぜひ、あなたに書いていただきたい。


 少し間をおいて、私は答えた。

 「わかりました。長崎さんの御依頼、謹んで、お受けいたします」

 「そうか、ありがとう。じゃあ早速、ユニオンズの頃の話、前にしたこととかなり重複するところもあるだろうが、早速、させていただこう」

 そう言って、長崎さんはテーブルの上の珈琲を口にし、一度カップを口から話して、もう一度口につけた後、そっとカップを皿の上に戻した。

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