第5話 ゼニのとれる風呂 4 それぞれのその後

 この年の3月初旬、岡山キャンプの途中で、ついに川崎ユニオンズは「解散」の憂き目にあった。


 六大学のスター選手だった佐々本信二選手は、急映スターズに移籍となったものの、1年目のようにぱっとせず、わずか数年で選手生活を終えた。しかし彼は、野球評論家として、また、スポーツキャスターとして、野球を中継するテレビの人気タレントの一人となった。彼がキャスターを務める番組は十数年間続き、プロ野球の歴史にも名を留めることとなった。

 このとき西沢青年らとよつ葉園の風呂に来た井元四郎投手はユニオンズ消滅後も他球団に移籍し、しばらく投手として活躍したのち、南海ホークスのスカウトとなった。

 長崎弘マネージャーは翌年の衆議院議員総選挙で川崎龍次郎氏の後継として初の選挙に挑み見事当選。その後数十年来国会議員として与党の重鎮として君臨し、大臣も経験した。

 西沢茂青年は、選挙の準備で忙しくなった長崎マネージャーの代理として約1年間、株式会社川崎球団の清算事務に携わった。その後、選挙に出馬する長崎氏の私設秘書となって数年間愛媛と東京を往復する日々を送った後、神戸の実家に戻って家業を継いだ。


 大宮哲郎青年はO大学卒業後大学院に進学して司法試験を受験していたが、いつまでもそんなことをしている場合かと長崎氏に説得され、大阪に本社のある三角建設に大学院修了を機に就職し、法務や人事などの業務を中心にサラリーマン生活を送った。彼は北海道出身の後輩と結婚し、一子をもうけた。1970年代半ばには函館支社に転勤となり、そこで10年ほど勤めた後、大阪の本社に戻ってきた。

 函館支社にいた頃の大宮氏は仕事一本の男で、家庭をあまり顧みないところもあった。しかしながら息子である太郎氏が中学時代大病を患い、その入院先で知合った息子より1歳年上の女子中学生とその家族との家族ぐるみの付合いの中で、そのかたくなな姿勢が徐々に和らいでいった。

 その時に大きく役立ったのは、学生時代、川崎ユニオンズというチームがあって、そこで選手たちと交流していたことだった。


 川崎ユニオンズが岡山県営球場で解散を迎えたその日、選手たちは急ごしらえで作った「サヨナラ川崎球団」という模造紙とともに記念写真を何枚か残している。その記念写真の中には、球場の背後の半田山という小高い山を背景に、かつて「孤児院」と呼ばれた養護施設の建物が移っているものがある。選手たちが「U」のマークをかたどって並び、帽子をとって手を挙げて振っているその向こうに移っていたのは、よつ葉園の園舎と、その年の2月に完成したばかりの白亜の銭湯であった。

 そのときすでに銭湯は、煙突から煙を出していた。

 すでにその日も、よつ葉園銭湯は入浴客を招く準備をしていたのである。


 近鉄球団への移籍が決まった井元四郎投手は、そそくさとよつ葉園の風呂に入った後、旅館に戻って荷造りし、夕方の特急「かもめ」の三等車で近鉄球団がキャンプをしている大阪へと向かった。この日ばかりは、彼はよつ葉園の事務所に出向き、森川園長ら関係者にお礼の挨拶をして、新天地へと旅立った。

 後に彼がスカウトとなって岡山に用事ができたときにも、彼はこのよつ葉園銭湯に来て汗を流したことがあるという。


 大宮哲郎氏は三角建設に就職し、自分よりいささか若い受付嬢の女性と結婚した。里帰りと称して岡山に戻ってきたときも、彼はよつ葉園に必ず出向き、幼少期からかわいがってくれていた森川園長に必ず挨拶した。

 そんな折、彼はある若者の世話を森川園長から託された。森川氏の遠縁にあたる大槻和男という青年が大阪の河内商業大学に進学するというので、彼の大阪暮らしの世話をしてやってくれということになったのである。

 大槻青年は負けん気の強い青年であった。大宮氏は川崎ユニオンズを通して知り合った神戸の西沢茂氏ともに、ことあるごとに大槻青年の世話をした。大槻青年は彼らのおかげで、都市部での生活で必要なことを大いに学ぶことができた。


 そのことはやがて、よつ葉園という養護施設においては、形を変えて活きてきた。大槻和男氏が大学を卒業後よつ葉園に就職して半世紀。よつ葉園は、孤児院時代の悪弊と言ってもいい雰囲気をすべて払しょくし尽くした。その中心となったのは、他でもない、大槻和男児童指導員であり、のちの園長であった。


 森川一郎園長の言う「ゼニのとれる風呂」は、それから約四半世紀近くその地にあった。

 児童に労働をさせているという点を問題視した岡山県の福祉担当者らは、何度となく銭湯事業の「中止勧告」をした。

 しかしながら、地元の人たちにも愛され、プロ野球や大相撲の興行などの折にはこうした寄付を絡めた入浴が相次いだこともあり、この風呂の建設費はわずか数年で償還できた。もっとも、その5年後に完成した鉄筋の園舎の償還には随分苦しむこととなった。

 風呂は金を生むが、ただ子どもたちと職員が寝泊まりするだけの園舎は、そうした利益を生むことはない。

 今以上に福祉への手当が不十分だった当時、それでもよつ葉園は、手をこまねくことなく、様々な方策を立てて子どもたちを育て、そして巣立たせていた。


 やがて、津島町近辺は文教地区として脚光を浴び始め、自家風呂もほぼ完全に普及し切った。かつては近隣の銭湯に比べて安いからということで近隣の大学生も利用していたが、1970年代に入ると、各下宿にも自家風呂が出来始めたこともあり、わざわざよつ葉園の銭湯に来る学生も少なくなっていた。

 そんなわけで、最後の10年近くは、かつての男風呂だけを子どもたちと職員らの入浴に使うだけにとどめ、かつての女風呂は、資材置場にしていた。そこを事務室にできないかという案もあったのだが、改築にあまりに金がかかるというので、その話はたちまちのうちに立消えとなった。


 「ゼニのとれる風呂」はよつ葉園の移転とともに取り壊され、学生向けのアパートがその地に建ったものの、近年ではそれも取り壊され、現在は個人病院兼自宅が建てられている。

 しかし、その建物の外壁もなぜか、白色である。

 そこはかつてのよつ葉園銭湯と同じなのだが、その玄関はよつ葉園銭湯の逆で、南側に設けられている。

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