98話 ケイオスの後悔の記憶


 それはいつもと変わらない日のことだった。


「散歩に行かないか」

「また海岸かい」

「そう言うなよ。海を見るのは兄さんも好きだろ」

「ふっ、どうせルオリクは水着の女性を見たいだけだろ」

「ばれたか」


 ルオリクは笑顔でそう言う。


 私の弟は昔から分け隔てなく人に愛される性格の持ち主だった。

 父も母も私も、この少々――いや、かなり馬鹿な弟が大好きだった。


 お人好しだが自分に正直で、それでいて妙に勘の鋭い弟が。


 私は本を閉じ、いつものように海へと出かける。


 私達は、この国、この街をとても誇らしく感じていた。

 その象徴とも言えるのが青く美しい海だ。


 悲しい時も、嬉しい時も、いつだって海を見ていた。





「なぁ、兄さん」

「なんだ」

「いつまでこうして二人で海を見られるんだろうな」


 ルオリクの言葉に、私はすぐには返事ができなかった。


 いずれ私も弟もそれぞれの道を進まねばならない。

 私は当主へ。ルオリクも屋敷を出なければならなくなるだろう。


 恐らくこうしていつでも海を見ることはできなくなる。


 だが、幸い我々は貴族の家に生まれた。


 エイバン家の名を使えば、職を見つけるのは容易だ。

 王宮に仕えることだって可能だろう。


 弟は剣の腕はいい、宮廷騎士になることも不可能ではない。


「誰か倒れてる!」

「なんだと!」


 ルオリクと私は立ち上がり、海岸を走る。

 彼が水際に倒れていた女性を抱き上げた。


 それは黒髪のドレス姿の女性。


 容姿はとてもではないが美しいとは言えなかった。


「息をしていない! すぐに蘇生法を!」

「しかし、見ず知らずの女性と口づけなど……」

「じゃあ兄さんは胸を押してくれ! 俺が息を吹き込む!」


 弟は迷うことなく女性の口に口を重ねた。


 私は遅れながらも女性の胸に手を当て、肋骨を圧迫させる。


 正直、この女はもう助からないと思っていた。

 どこから流されたのかは知らないが、近くに船も見当たらない。

 水死体がたまたま打ち上げられた程度に感じていた。


「げほげほっ」

「やった、息を吹き返したぞ!」


 水を吐き出した女性に、私は心底驚いた。


 弟は勘が鋭い、もしかするとまだ助けられると本能で察したのかもしれない。


 女性は体温の低下が著しく、がたがた震え始めた。

 ルオリクは女性を抱きかかえ、屋敷へと向かってしまう。


 残された私は弟のいつものお人好しに呆れ、溜め息を吐いた。



 ◇



 女性には記憶がなかった。


 どこから来たのか、なぜ溺れていたのかも覚えていなかったのだ。


 弟は彼女をミスティと名付け甲斐甲斐しく面倒を見た。


 そのおかげもあって数日で立ち上がれるまでに回復、一週間が経過するころには普通の生活を送れるまでになっていた。


 そして、ミスティは屋敷で働くこととなった。


 どこかの令嬢かもしれないと、両親も私も働かせることには反対したのだが、ミスティは頑なに働きたいと主張したのだ。

 ルオリクもリハビリになると彼女の意見には賛成だった。


 それに何かの拍子で記憶が戻るかもしれないと、私達は説得されたのだ。


「ケイオス様は本がお好きなのですね」

「ああ」

「もしよろしければ私にも貸していただけないでしょうか」

「構わないが、女性には少々難しいかもしれない。それよりも母上の蔵書の方が君には向いているだろう」

「あちらは……もう読み終わりました」


 私は非常に驚いた。


 母の蔵書は恋愛小説ばかりだが、その数は軽く百を超える。

 まだこの屋敷に来て一ヶ月も経たない彼女が全てを読み終えるなど、とてもではないが信じられなかった。


 半信半疑で本を読むことを許可した。





「ふんふ~ん♪」

「ミスティ」


 メイド服で窓を拭く彼女に、私は声をかけた。


 本を貸し出すようになって一週間。

 本当に読んでいるのか、私はふと気になったのだ。


「なんでしょうかケイオス様」

「ルペネの著書『亜人とヒューマン』について聞かせてもらいたい」

「あれですか、えっとですね、率直に申し上げますとあの著者は大きな勘違いをなされているかと。そもそも『人』とは古代種のみを指し、それ以外はすべて亜人です。なぜヒューマンを中心に、物事を判断しようとするのかが理解できませんでした」

「どうしてそう思う」

「最初に自らを『人』と称したのは古代種だからです」


 この時初めて私は、ミスティをはっきりと見たような気がした。


 面白い。私は彼女に強い興味を抱いた。


 今までどんな女にも面白みを感じなかった私が、彼女だけは心惹かれるのが分かった。


 そして、さらに驚くべきことに、彼女はたった一週間で私の蔵書を全て読み終えていたのだ。






 彼女は質問のたびに、斬新な返答をした。

 時には私の抱いていた常識を砕くこともあった。


 いつしか夢中になっていた。


 私は本を買う度に彼女へ貸し出した。


 返却されると本の間にはいつも手紙が添えられ、感謝の言葉が綴られていたのだ。


 数ヶ月が経過した頃、私は妻にするなら彼女だと確信していた、


「ルオリク、ミスティについて話があるんだが――」


 弟のドアを開けた先にあった光景に、私は愕然とした。


 ルオリクがミスティとキスをしていたのだ。


 私に見せたことのない恍惚とした表情。

 弟もかつてないほど幸せそうな顔をしていた。


 二人は私に気が付き動揺する。


「兄さんか。驚いたよ」

「ルオリク……ミスティとは……」

「ああ、彼女とは近々結婚する予定なんだ」

「ご報告が遅れて申し訳ありません」


 私は一気に絶望へと突き落とされた。


 遅かったのだ。

 ルオリクは彼女の魅力に気が付いていた。


 恐らく助けたあの日から。


「兄さん……?」

「ルオリク、お前には失望した」

「!?」


 私は手袋を弟の胸に投げつけた。


 決闘の申し込みだ。


 ルオリクは私に一度も試合で勝ったことはない。

 それを分かっていてあえて申し込んだ。


 卑怯、なのだろうな。だが、それほどまでに私はミスティを欲していた。


「勝った方がミスティを得るものとする」

「嘘だよな、兄さん」

「本気だ。貴様もエイバン家に生まれた者なら正々堂々勝負を受けろ」

「にい、さん……」


 私は、弟の目を見られなかった。


 正々堂々だと、我ながらよく言えたものだ。

 負けないと確信がある上で、弟からミスティを取り上げようとしている。


 恐らくこの勝負で私が勝利すれば、ルオリクは屋敷を出て行くことだろう。


 私は、長年連れ添った弟よりも女をとろうとしているのだ。


 だがしかし、彼女はそれだけの価値がある。

 彼女だけは私を理解し、真に愛してくれることだろう。

 彼女だけを私は愛することができる。


 彼女こそが、私と添い遂げる存在なのだ。


「私がいけなかったのでしょうか。私がこの屋敷に来てしまったから」


 ミスティはすとん、と膝から崩れるように座り込む。


 青ざめた顔は見るに堪えなかった。


 今は悲しいだろう。

 けれど、私が必ず幸せにしてみせる。


 私と君との間にできる子は、きっと優秀だ。


 君も後になって知るはず、馬鹿な弟と結ばれなくてよかったと。


「分かったよ。この決闘受けて立つ」


 ルオリクは手袋を拾い上げる。


 私は背を向け「明日行う。準備をしておけ」とだけ伝えた。


 見せられなかったのだ。

 嬉しさに笑みを浮かべていたこの顔を。






 がしゃん。


 私の剣が地面に転がった。

 腕からは血が滴り、紅い華を咲かせる。


 見下ろすのは冷たい目。


 なぜだ、なぜこうなった。


 まさか隠していたのか。

 本当の実力を。


 貴様、わざと私に負けていたのか。


 ざぁぁぁあ。


 降り始めた雨が、私とルオリクの体を濡らす。


「兄さん、ごめん」

「ルオリク……まて、ミスティを」

「さようなら」


 弟は剣を投げ捨て、ミスティと連れ添って去って行く。


 私はその背中を黙って見送るしかなかった。

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