傷跡をなぞる感触

麻城すず

傷跡をなぞる感触

 大きく、醜い。

 けれども全てが目に見えるわけじゃない。

 引きつれた裂け目は未だ塞がり切らず、私を苛む。


 好きな人がいた。

 けれどその人には妻がいた。学生結婚だと笑う。子供は十六歳。私と四つ違い。彼は三十五。高校の時から付き合っていて彼より二歳下の彼女は、高校を中退して子供を産んだ。


「煙草は苦手?」

「好きじゃないです」

 彼はベッドの上に腰掛け、向かい合う私を抱き締めたままサイドボードの上から煙草とライターを取った。顔を横に向け、長い指に挟んだ一本を口に咥え火をつける。

 目を細めて吸う、その表情が好きだった。

 彼は二回煙を吐くと、三回目を吸い込んで煙草を灰皿に置いた。

「もう」

 吸わないんですかと続けようとして、彼の唇に言葉を奪われる。苦い煙が口の中に広がる。初めて味わう煙草の不味さに思わず顔を背けようともがけば、ますます強くなる抱擁に呼吸まで奪われそうになる。

「すず」

 呼ばれた名前が耳に入る。優しい声、でも高ぶりが隠されている艶のある声。

 力の抜けた私の頬を滑る手に悲しくなる。指先だけで触れてくれればいいのに。それとも、こうして自分が人のものであることを、私が忘れないようにわざとしているのだろうか。右の頬に何度も触れる、金属の感触。

 私が手をとっても彼は何も言わない。薬指の指輪を抜き取っても。仕方が無いなって困ったように微笑みながらされるがままになっている。

「今だけは私のものでいてください」

「今の僕は、すずだけのものだ」

 彼のことが好きだった。

 私の初めての大人の恋だった。初めて、溺れた恋。


 息が出来なかった。もがけばもがくほど深みにはまる。

 同じ職場。仕事中、書類に挟んだ短いメッセージ。

――⑦、A

 彼は狡猾だった。絶対に周りには悟られないように。

 7時に、駅の北口にあるホテルで。そのメモの意味は二人だけの暗号。Bなら私の部屋。Cなら彼の車の中。

 オフィス街の駅前にはビジネスホテルが多く立ち並ぶ。事務職の私は残業などほとんど無く、会社を六時には出ることが出来る。そのまま指定されたホテルに向かい、そこで初めて彼の携帯に電話を入れ、言われた部屋に向かい、そして彼に会う。

 彼は営業先から直帰の時に私を呼び出す。会社の終業時刻より僅かに早くチェックインして私を待っている。

 彼からの連絡に携帯を使わないのは、私とのやり取りを妻に見られたくないからだと言った。だから彼の携帯に私の番号は入っていない。アドレスも。

 家庭はうまくいっている。子供は可愛い。妻の料理は美味しい。幸せだ。そう言ったあと、続ける言葉は決まっていた。

「でもすず、僕は君を愛している」

 愛してくれなくて良かったと、何度思ったことか。何度口にしようと考えたことか。

 彼の温もりが体に刻み込まれる度に亀裂は大きくなっていく。裂けて抉られ、そしていつか私は膨らみすぎた風船のようにぜてしまうに違いない。


 彼はうまくやっていた。家庭も仕事も。私との付き合いもただの退屈な日常のアクセントとなるスリルのあるお遊び、その程度。

 けれど私は若かった。成人式からまだ半年。体は大人、年齢も。それでもまだ全ては大人になりきれていなくて。


 私の部屋でシャワーを浴びる彼。いつも鞄にいれてある、アイロンのかかった彼のハンカチの内側に片方のピアスを忍び込ませた。まめな彼の妻は必ずハンカチを手にとることだろう。見つけるのは鞄から出し広げた時か、或いは洗濯機の底でキラリと光を放った時か。


 次の日には彼に呼び出され、問い質された。

 私は笑った。なんだか分からないけれど慌てふためく彼が心底おかしかった。

「奥さんに不倫が分かってしまったんでしょう。別れて私のところに来てくれますよね?」

 笑顔で言う私をにらむ彼。初めて見る、疎ましげな目。

「浮気なら許すと言われた。あらたも……、子供もいる。一度の浮気なら無かったことにするからと。だからもうすずとは別れたい」

「浮気?」

 子供の名前、あらた君って言うのかなんてぼんやり考えていた私の頭を刺すように突き抜けた言葉。

 私を愛していると言ったあの言葉は誰のものだった? 私への愛はそんな移ろいやすいフワフワとしたものだった? 不倫なんて嫌。でも浮わついた気持ちだったなんて言われるのはもっと嫌。


 彼の意向で会社を辞めた。新しい就職先は女性が多く、快適だった。

 彼からは何度か連絡が来た。とはいえやはり携帯を使わない彼は直接訪ねてくるので私はひたすら居留守を決め込んだ。別れて直ぐの頃は彼の声に何度ドアを開けようと思ったか分からない。けれど段々面倒になっていった。私を本気で想ってくれない人を、私ばかりが慕っているのは不条理だ。


 そして6年。彼からの連絡はもう無く、わたしは二十六になっていた。恋はしても、もう溺れたりはしない。あんな風になりふり構わない恋はもう出来ない。


「今年うちにも新人来るって。しかも男の子」

 先輩の弾む声に私は笑みを返す。男でも女でもどうでもいい。仕事が出来さえすれば。

「さ、入って」

 部の入口のドアが開き、部長と新人らしき若い男の子が入って来る。

 私は目を見張る。そんな筈は無いと頭は否定し、けれども体は動揺しこわ張る。名前は。

塚本新つかもとあらたです。よろしくお願いします」

 緊張したようにピンと張った背中で直角のお辞儀をする。

 あらた。あの人の子供と同じ名前。でも名字が違う。思い違いかもしれない。

 何故引きつけられるの? 黒々とした固い髪のせい? 狭い額のせい? 綺麗な線を描く眉のせい? それとも少し尖った顎のせいなの?

 彼に似た、それぞれが私を揺らす。ああ、あの時は面倒だと思ったのに。そうして吹っ切れたものだと思い込んでいたのに。

「すず、顔色悪いよ」

 心配そうに声を掛ける先輩にまた笑いを返す。もう治っていると思い込んでいた胸の傷は、まだ引きつれたままジンジンと息苦しいほどの痛みをおこす。

 結局、私はあの頃と何も変わっていないのだ。


「すずさん、煙草苦手?」

「好きじゃないわ」

「そう」

 一度伸ばしかけた手を引いて、煙草の代わりに私の髪に触れる。荒々しかった彼とは違う。駆け引きを知らず、ただ優しいだけ。

 新は私のことを知っていた。彼に母以外の女性がいたことはピアスのことがあるより前から知っていて、私の顔も見知っていたと言った。

「あなたを見た時、父さんから奪いたいと思った」

「じゃあ成功ね」

 一度の浮気を許すと言った妻が彼との離婚を決めたのは、彼の財布の奥に一枚の写真を見つけたからだった。彼と付き合っていた時、プリクラは恥ずかしいと言った彼に無理を言って撮ってもらった二人の写真。小さな空間で肩を寄せ合い笑った彼と私。

 別れてから数年後に見つけられたその写真で、妻は彼と私がまだ続いているのだと思い込んだ。もめてもめて。しかし一度ならと許した妻に二度目は無かった。

 離婚は、つい数ヶ月前のことだと新は笑った。

「母さんはいい人なんだよ。いい人過ぎて退屈なんだ。父さんと離れて母さんと二人で暮らしすようになって分かった」

「私は退屈しのぎなわけね」

 肌を伝うその手に金属の感触はない。無機質なものは何も。あるのは高まり帯びる熱、それだけ。

「父さんにはそうだったのかもね。だけど」

 言葉を切り、触れる。新のキスは稚拙だ。でも感情が伝わる。子供みたいだと思う。


 彼は違った。私の体に熱を点すあのキスは今思えばゲームみたいだった。私が彼しか見えなくなったら彼の勝ち。私から彼を求めたら、彼の勝ち。

「すずさん。俺はすずさんが好き。すずさんだけが好きなんだ」

 彼の財布の中にあったのが私との写真だったことが、今更でもこんなに嬉しいのは何故だろう。未練? 違う。あの時私は確かに面倒だと思ったのに。


 新の熱に包まれながら思うのはあの日のこと。


――でもすず、僕は君を愛している


 引きつれた裂け目は未だ塞がり切らず、私を苛む。

 新の舌が、私の傷跡をなぞるように肌に触れる。優しく、ゆっくりと。その感触に溺れはしない。

 私はもう、恋に溺れたりはしたくない。

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傷跡をなぞる感触 麻城すず @suzuasa

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