焼き付いた笑顔

麻城すず

焼き付いた笑顔

「いい年をして」

 なんて嫌な言葉なの。

 自覚はある。もうすぐ二十八だもの。確かに「いい年」に違いない。

 だけど結婚なんて考えられない。これはもう仕方がない。

「まったくあんたはいい年をして、まだ結婚を考えられないなんて平気で言うんだから。出戻りも嫌だけど、行き遅れなんて母さんもっと嫌だからね」

 大学に入り一人暮らしを始めてから、かれこれ十年振りに帰省してみれば、のっけから始まる母の小言。聞こえない振りをして、私はそそくさと靴を履く。

「どこ行く気?」

「さんぽー」

 今逃げ出したって、帰ればまた言われるんだろう。予想はつく。だけどまあいい。

 結婚なんて、私には何の現実味もない。二十五を過ぎた頃から周りばかりが盛り上がって、肝心の本人は置いてけぼり。別に、置いてけぼりは今に始まった事じゃないけれど。もう十年も前から、私の心は置いてけぼりだ。

 無意識に足を進める、その道は随分変わった。知らないお店が出来て、馴染みだった店は無くなって。舗装もただのアスファルトだったのが、こじゃれたタイルになっている。変わったもの、変わらないもの。

 十年も離れていた故郷は、私の知っている町とは少し違う。それでも、変わらないものもある。

「やっぱり」

 何となく、その姿を見てほっとした。変わらないもの。かつて私が通った高校。

 胸が疼く。懐かしい思い出がよみがえる。思い出になどしたくなかった、あの最後の日。

 卒業式は、とても綺麗な青空の日。空が、太陽が、風が、空気が。まるで私達を祝福してくれたかのような気持ちのいい春の始まり。

 私はその日、大好きな人と別れを交わした。

 高校に入学して同じクラスになった彼に、ほとんど一目ぼれだったのだと思う。いつも、気がつけば目で追っていた。

 片思いの切なさ、恋しさ。好きだと思う気持ちの満ち足りた幸福に浸ったり、応えてもらうことの出来ない苦しさに泣いたり。

 彼が私の気持ちに気付いていた事を知ったのは、彼からされた交際の申し込みをまるで夢の中にいるようなフワフワとした気持ちで聞いた時。

 両思いの幸せは、片思いの独り善がりな幸福感より何倍も素敵で、私はそれが終わる日があるなんて、考えもしなかった。

 でも、終わらせたのは私。自分の夢と彼を天秤にかけて、夢を取った。

 彼の家は地元では有名な和菓子屋さんで、卒業したら家業に入る事が決まっていた。私の目指す薬科大は、故郷から遠く離れた都会にあって。

 私達の別れが決まったのは卒業式の二日前、大学の合格通知が届いた日のことだった。

「仕方ないよな」

 自分が悪いくせに泣きじゃくる私を宥めながら彼は笑って。後輩からもらった花束から黄色い花を一本抜いて、私の髪にそっとさした。

「好きだよ」

 耳元で囁かれた言葉。繋いだ手の温もり。繋がる唇。触れ合う吐息。

 彼の全てを失うことを今更ながら実感した私には「好き」という言葉を返す事が出来なかった。自分の夢のために彼を切り捨てるような私に、好きだと告げる資格なんてあるわけがない。

「応援してるから」

 彼はあの時、どんな気持ちで笑ったのだろう。私の胸に焼き付くその笑顔が、十年経ってもまだ私を縛り付ける枷になるなんてきっと考えもしなかっただろうと思う。

 大学を卒業し院に進んで、希望していた製薬会社で開発の仕事に就いた。

 この十年、恋人と呼ばれる関係になった人は何人かいたけれど、忘れられないものに縋る私から、みんな離れていってしまった。

 あの日空はとても青くて、私の涙はきっとこの空に吸い込まれていくんだと思った。残ってはいけないもの。残してはいけないもの。未練も後悔も、道を選んだのは私だから。

「沙也」

 校舎を眺めたまま動けなかった私にかけられた言葉は、懐かしい響きを伴って。

「悠太……」

 彼の声が好きだった。低く囁くように名前を呼ばれることは、私だけの特権だった。

 白い帽子に、白いエプロン。作業場からそのまま来たんだろうなってすぐ分かるその服装。それから左手の薬指に光るリング。彼の顔はもうあの頃とは違う、大人の顔だ。

「店の前通ったろ。まさかと思って追っかけてみたらやっぱり沙也だった」

 あの頃の私なら、きっと泣いていただろう。彼が私に会いに来てくれる。そんな行為が幸せだった。

 だけど私はもう泣かない。私の胸に焼き付いたあの時の笑顔の持ち主は、今の彼とは違うのだから。

「久し振りだな」

「うん」

 二度と会わないつもりだった。でも会えて良かったと思う。

 今、この瞬間、胸に焼き付いた笑顔は思い出に変わるから。

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焼き付いた笑顔 麻城すず @suzuasa

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