だとしても、俺は明日の光へ手を伸ばす。

未翔完

夏休みのある日のこと


 ある年の夏休み。あれは……8月上旬のことだったか。

 ―――俺は忘れられない体験をした。

 って言っても、大したことじゃないだろと返されそうだけど。

 まあそれは良いとして。俺はその体験から、自分を変えてみようと決心したんだ。

 ……自分を変えるって言っても、それこそ大したことじゃない。ほんの一歩だけ前に進むだけだ。けど以前の俺にはそれすらできなかった。

 情けない話だけど、あの時の俺は抜け殻みたいなものだった。夢も希望も無かったし、それを見つけようなんて気概も無かった。それがたった一日の体験で、命を吹き込まれたかのように生き生きとした自分へ戻ることができたんだ。

 そんな現金で馬鹿な俺の、ひと夏の思い出を聞いてくれ。



 

「……んっ……。ふぁぁぁっ……ぁ」


 カーテンから差し込む陽に目が覚めて、起きるとそこは自室。当たり前だ。

 布団の上でパジャマ姿の俺は思い切り背伸びをして、頭を三度みたび掻いた。

 そして最初に抱いた感情は『暑い』というもの。エアコンの電源は切れていた。

 枕元にあるスマホの電源ボタンを押すと、表示される時刻は10時26分。

 平日なら大遅刻も良いところだが、今は夏休み真っ盛りの8月上旬。両親は働きに行ってるし、誰も咎める人はいない。にしたって自堕落な生活だとは思うが、早く起きたところでやることなんて無いのだ。

 高校一年生で学校の課題とかは勿論あるけれど、いかんせんやる気が起きない。

 まず夢が無い。どういう大学に行きたい。こんな職業に就きたい。どんな人生を歩みたい。最後はちょっと大げさかもしれないが、普通の高一ならそれぐらいはぼんやりながらも考えるだろう。ちゃんと考えてる奴はそれなりにしっかりとした人生構想みたいなのを描いていて、それに向けた勉強とかしてるのかもしれない。

 けど俺には、それが一切と言っていいほど無い。言ってしまえばつまらない奴。

 

「がらがらがらがら……ぺっ」


 布団を畳んだ後に俺が向かったのは洗面所。

 とりあえずうがいをしておく。そして顔を洗う。

 当たり前で普通で、何の変哲も無いことをするだけの自分。

 多分次に俺が取る行動も、誰だって想像ができる平凡なもの。

 別に嫌気が差してるってわけじゃない。でも、このままで良いのかなってときどき思う。少なくとも寝起き直後に早速ブルーな雰囲気になれるぐらいには、今の自分の在り方に疑問を抱いていることは確かだ。

 けど、どうやったらそれを解決できるのか。分からない。

 

「あ……作っておいてくれてたんだ」


 二階の洗面所から下りてくると、居間のテーブルにはラップされた朝食が置かれていた。ご飯、豆腐とネギの味噌汁、焼き鮭。あとパックの納豆。

 オーソドックスすぎるな。近頃日本人は朝食でパンを食べることが多くなってきてるらしいけど、俺の家は特別なことが無い限り米だ。

 令和の時代を迎えた日本じゃ珍しい、田んぼに囲まれたド田舎に家があるっていうのも関係してるかもしれない。……ってか暑い。

 母は気をきかせて朝食をラップしておいてくれたのだろうが、代わりにエアコンは消されている。母はおっちょこちょいというか、少し抜けているのだ。

 そのおかげで、一階に行けば涼しいだろうという幻想は打ち砕かれた。

 俺は目の前にある朝食のことなぞ忘れて、ただただ直近の問題である暑さをどうにかしようとエアコンのリモコンを探す。だが探すまでも無かった。

 

「ピッ、と。……飯、絶対冷えてんじゃん」


 木のテーブルの上に置かれていたリモコンのボタンを押すと、ピピッという音と共に壁上部に張り付いている白き直方体がウィーーンと唸る。

 最初は微風しか送ってこなかったが、段々と強くなっていく。ものの数分もすればこの部屋一帯が快適な温度になるだろう。そんな様子を横目に、俺は朝食として並べられた品目たちのラップを外していく。

 呟いた言葉は予想として的中した。茶碗に盛られたご飯は冷たくなっている。そして若干固い。ラップのおかげで大した劣化ではないが、少し心が萎える。

 味噌汁や焼き鮭も同様。少なくともつくりたて気分は楽しめない。なに朝食如きで感情を一喜一憂させてるんだって話だけど。

 ……ちょっとだけ、レンジでチンしようかな?


「うーん……やっぱやめた」


 グゥゥっと、俺の腹からは既に指令が下されていた。

 レンジで1分加熱することすらも許さぬとばかりに、唾液腺も洪水を起こす。

 体は正直だって言うけど、それは確かな事実だ。俺はテーブルの椅子に座った。

 漆が塗られた赤の箸一膳が、ご飯と味噌汁の手前に置かれていた。それをパッと掴み、両親指・人差し指の間で挟んで「いただきます」と軽く一礼。

 まずは小手調べだとでも言うかのように、少し笑いを堪えながら味噌汁を一吸い。

 絵面的には気持ち悪いかもしれないがそれは御一興。空腹には何人だって抗えない。昨日寝たのは珍しく12時前だったから、余計食欲が増大している。

 ……そう考えると、やっぱり俺は自堕落な生活を送っていると感じる。昨夜は10時間も寝たということになるのだから。


「うめー……」


 僅かに生まれた自責の念も、少しずつ満たされゆく腹のご機嫌取りの前には塵に等しい。本当に美味しい。―――何故だろう? 普段よりも格段に、朝食が美味しい。

 普通の味噌汁も、口に流し込んだだけで体全体に染み渡るかのような心地がする。

 ご飯にもどんどんパクパクと箸が伸びていくし、焼き鮭に関してはいちいち骨を除けて身をほぐしていくのがどうしようもなくもどかしい。

 ああ、そうだ。パック納豆の存在を忘れてた。俺は半分ほど食べ終わった茶碗を横目に、パックのスチロール蓋をこじ開ける。そして身を寄せ合っている茶色の豆粒たちに小袋状態のからしとタレを投入。続いてお待ちかねの、納豆混ぜ混ぜタイム。

 箸をグルグルと繰り、3.1415926535……といったアルキメデス等数学者たちからの贈り物をパックの中で体現するが如く、円を何重にも描いていく。

 しかし当然のことながら、箸の片手持ちで完全な円なんて描けるはずもなく。箸を幾度も一周させる度に円周率πを冒涜しながらも、納豆は食べる頃合いとなる。

 箸を一度納豆から離してみれば、ねばねばと糸を引く。それがゆっくりと降りていくのをじっと見ていたいという気持ちもあったが、これ以上は待てない。

 俺は右手の関節をフル稼働させて、箸を回していく。一二三四五六七八……。

 

「……よし、そろそろ茶碗に入れるか」


 そう呟き、謎の緊張感を纏ったままパックに入った納豆を茶碗に投入。

 白くつややかな米粒たちの上に、同じく若干カラシの黄色が混ざりあでやかさを抱いた納豆たちが顕現。覆い被さっていく。

 そして用済みとなったスチロールの器を机上に置き、茶碗を左手で持ち。

 まるで神前決闘アディカラーニャに挑む戦士のような面持ちで、赤き箸を伸ばし―――。

 



「ふー、食った食った」


 そしてものの10分もしない内に食事は終了。今は食器を軽く洗ってから食洗機に入れ、ソファに背をもたれかけスマホで適当にTwitterを巡回しているところ。

 唸りを上げていた空腹も治まり、今は静かな幸福感があるだけである。

 今のネットでは『台風大災害 復旧の目途は』と題されたニュースが話題のようだ。確かに先月下旬の台風は凄かったもんなぁ。俺が住んでいる地域にも直撃したが、他の地域に比べればまだまだ小さな被害だった。

 それにしても、今朝の朝食は本当に不思議な心地だった。一体なんなのだろう。

 ―――何かが変わる予兆? ふとそんな言葉が脳裏を過ぎる。

 

「変わるって、何がだよ」


 そう自嘲するように言う。きっとただの気まぐれだと思い込ませるように。

 簡単に何かが変わるわけが無い。何かを成し遂げようと思って、期待して、一歩を踏み出したとて。一時的に自分は変わったんだって、錯覚するだけ。

 結局しばらく経ってから、すぐに気付く。他と比べて、現実を叩きつけられる。

 そうして打ちのめされて、やっぱり自分は何も変わることができないんだって絶望して、また無気力になる。元通り、どころかもっと駄目な奴になるんだ。

 ……だから、俺は何かに望みをかけたり期待したりなんてしない。

 少しの希望に賭けて挫折するくらいだったら、最初から何もやらない。

 それが俺のスタンスだ。だから決して、俺は今の自分の在り方を否定しない。

 疑問が浮かぶことはしばしばあるが、それでも何か変えようとしたことはない。

 変える方法が思い付かないんじゃない、最初から考えようとしていないのだ。

 まるで負け惜しみか子供の言い訳みたいな文句だが、それでも俺は変わらない。

 本当に普通の生活、普通の人生を歩みたいだけ。それだけで。

 俺の目の前にはきっと闇が広がってる。やりたいこと探しなんて馬鹿らしい。

 未来へ繋がる光なんて無い。現れちゃくれないんだよ。


「これから、何しようかな……」


 一通りどうしようもない思案が終わった後、俺は一旦スマホを置いてまた思案。

 かなり遅い朝食だったから昼食の時間も13時台に……もしくは適当に軽食だけで夕飯まで耐えしのぐとして。それまで惰性に勉強でもしようか?

 もしくは読書でも。ちょっとは外に出て運動するとか?

 いや最後は駄目だな。外は暑すぎる。この町一帯は山間につくられているから、夏場は結構な猛暑になるのだ。そんな中を運動? 冗談にしたって趣味が悪い。

 まあ俺が考えたことなんだけどさ。そう軽く自嘲して、俺は再びスマホを手に取った。あとでやりたいことは見つかるだろう、なんて逃げて先延ばしにして。


「……ん、通知が来てる。誰からだ?」


 気付けばLINEに通知が来ている。

 こんな惰性な俺だが、学校では一応友達がいる。部活にも当然入っていないので『どういう繋がりで友達になったの?』と聞かれると答えづらい。

 しいて言えば同じクラスの男子で、単純に気が合ったから……かな? 

 LINEのホーム画面の一角に映る〈来栖頼都くるすらいと〉という自分の名前を何の感情も無く一瞥すると、通知されたメッセージを確認。

 トーク画面の上部には〈尾鷲おわせ永輝ながてる〉という、俺の友人の名前が表示される。

 思えば4月にLINEを交換してから、学校では話すもののこっちの方ではあまりトークしたこと無かったな。一体、どんな内容だろう。


『なあ、頼都。って知ってるか?』


 俺はそのメッセージを見て、少し首を傾げた。

 岩戸山いわとさん……ってのは知ってる。この町から程近くにある標高300mくらいの小さな山だ。しかしそこに洞窟があるなんて話は聞いたことが無い。

 俺はすぐさまメッセージを打ち込んで送信した。

 すぐに既読が付いて、永輝から返信が。


『岩戸山は知ってる。洞窟は知らん』


『なんか麓に、山の所有者も知らないデカい洞窟があるんだってよ』

『今から行ってみないか? 探検』


 山の所有者すら知らない……。そんなことあるか?

 しかもデカいと来た。中々怪しい話だな。それにこんな暑い中、いちいち山まで行って洞窟探検なんて子供っぽいことをするほど暇な高校生がどこに……。

 

「……そういや、俺暇だったなぁ」


 俺は右手を額に当てて、少し考えてみる。

 さっきも外出してみるというのは考えとして浮かんだが、やはり外は暑いのだ。

 やっぱり夏においてエアコンは至高ということだな。自宅が一番。これ真理。

 しかしその謎の岩戸山洞窟に少し興味があることを、否定できないというのもこれまた真理なのだ。うーん…………。惰性か。興味か。

 そして思考の末に導き出され、右手でディスプレイに打ち出された結論は。


『OK。今からチャリ飛ばして行くわ』

『岩戸山の山道入り口でいいか?』


『そう言うと思ってた』

『みんな待ってるから、なるべく早くな!』

『なるはやで!(LINEスタンプ)』


 みんな? 他にもその洞窟探検に参加する奴がいるのだろうか。

 俺の知ってる奴か? だったら嬉しいんだが、永輝は色んな奴と仲良いからな。

 他クラスの奴とかが来ると色々気まずかったりするんじゃなかろうか。

 そんなことを一瞬思ったが、体は即座に動いていた。

 1000円と幾らかの小銭が入った黒の財布、容量600mlのペットボトルを準備。

 財布は自室の机の上から持ってきた。ペットボトルは冷蔵庫の中に緑茶が入ったまま置いてあって、それに保冷用カバーを付けて完成。

 熱中症になるのは怖いし、行く途中に自販機があったらスポドリでも買おう。

 それと洞窟探検ってことだし、パーカーとか長袖ズボンも引っ張り出してきて……。黒のリュックにペットボトルともども全てを、ぶち込む。


「あ……懐中電灯必要かな?」


 玄関に行こうとする俺の自律神経を阻害する思考。

 洞窟に行くんだから懐中電灯ぐらいは必要だろう。あと一応2本持っていこう。誰かが懐中電灯を忘れるかもしれない。そこまで考えがいったところで、俺は思わず破顔する。なんだ、めちゃくちゃ乗り気じゃん。と。

 

「俺、ちょっとガキすぎるだろ」


 今度の自嘲は、今までのものとは違う意味合い。

 何かを諦めて冷めた笑みじゃない、心の底から楽しさの笑い。

 なんだか懐かしい気分だ。洞窟探検という響きが、俺を童心に返らせているのだろうか。……一時的にじゃなくて、何から何まで昔の俺に戻らせてくれれば良いのにな。そんなの叶いっこないって、分かっているけどさ。

 

「……さ、行こう」


 階段の手すりにかかっていた、ストラップの付いた緑色の懐中電灯2本を取ると、他にも色々と万が一に備えてリュックに物を入れる。ちょっと心配し過ぎっていうぐらいには、あらゆる事態に想定して入れたせいでリュックはパンパンだ。

 そして玄関外まで出て、鍵を閉めた。

 外はやっぱりのカンカン照り。「あっちぃー」と声が漏れる。

 ミーンミーンと、ステレオタイプみたいな蝉の大合唱が響いている。

 家のガレージに置いてある青色の自転車。その前カゴに荷物全てが入ったリュックを入れ、家の外に出す。そしてサドルに跨り、いざ岩戸山洞窟へ。

 ペダルを力強く踏んだ。勢いよく、太陽の燦燦さんさんとした輝きを反射する青の車体は動き出していく。既に額は汗で濡れていたが、決して俺の表情に陰りは無かった。俺は横に緑の田園広がる田舎道を駆け抜けていく。

 真正面から受けるその風は、少しだけ心地よかった。

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