サンダルでダッシュ!

ritsuca

第1話

 なぜこんなに息を切らしてまで走っているのか、ちょっと、いや、もう全くもって訳がわからない。訳がわからないながらも、走り始めてそろそろ信号はもう10を過ぎようとしている、たぶん。

 ええと、そう、何かが怖いと思って、それから、そこから逃げ出した、のだったと思う。思うのだけれども、さあ困った。走っているうちにどうやら忘れてしまったらしい。けれど一向に足が止まらないことからして、そして後ろから走ってくるような足音が聞こえることからして、まだしばらくは逃げていないといけないらしい。

 でも待って、しばらくって、いつまで? どこまで?

 わからないなりに走り続けて、ああまた次の信号が見えてきた。赤信号、渡れないのでとりあえず道なりに曲がる。曲がって、突き当たりでないことに安心しながらまた走る。

 時折ふと目に入る草花に癒されるような余裕もないままに走り続ける。スマホと鍵を入れただけのサコッシュが時折揺れて、背にあたる。着古したTシャツと、ジャージ素材でもなんでもないハーフパンツ、それに頑丈なことに定評のある某ブランドのサンダル。こんな気の抜けた格好でここまで全力疾走する羽目になるだなんて。しかも真昼間から。

 ああ困った。それにそろそろ疲れたし、喉も乾いてきた。でもまだ後ろからの足音が消える気配はない。どころか、段々距離を詰められているような気がする。音が近い、ような。

 困った。

「なんで逃げるんですか先輩!」

「わか、らん! そっち、こそ、なんで、追い、かけて、くるんだ⁉︎」

「先輩が逃げるからですよ!」

 追いかけてくる脅威は、この春後輩として入ってきた新人女子だった。と、半ば強制的に思い出す。しかし結局逃げ出したきっかけは全く持って思い出せないまま、足音が近づいてきて、男女の基礎体力の差なんて、本格的な運動経験の有無の前には塵と化す。学んだ。もっと早くに学んでいたかった。

 もう、

「もう、無理……!」

「捕まえました!」

 いい加減走り続けるのが苦しくなって膝もガクガクしてきて崩れ始めると同時に左の肘を掴まれて、地面に激突するはずだった膝はふらりと宙に浮く。

 スタミナだけじゃなくて力でも負けるだなんて、基礎体力の差なんて幻想なんじゃないか。

「いやいや、先輩が運動不足なだけでしょう、それは」

「お前、エスパー、だった、のか……?」

「何言ってるんですか。ずーっとぶつくさぼやいてらしたので思わずツッコミ入れてしまっただけですよ、私」

「そ、か……」

 そうですよ、と笑う後輩の声は晴れやかで、どうして彼女からここまで必死に逃げていたのか、という心地になる。先ほどまでのあの焦燥感は、何かの間違いだったのではないか、と。

 はは、と思わず緩んだ顔から、声が零れる。疲れ果てて前を見る余裕すらもなく項垂れたまま腕を引かれて歩いていたので、地面の敷石の形状が変わったような気がしても、おや、と思ったきりだった。

「すみませーん、14時の回、大人2枚、お願いします」

「ん?」

「あ、気が付きました? 映画館、着きましたよ。約束ですから、付き合ってくださいね?」

 にこり、と満面の笑みを浮かべて後輩が差し出してきたのは、14時からと印字された、映画のチケット。途端に後輩から全力疾走で逃げていた理由を思い出す。タイトルを見るまでもない。自分が苦手で、そして後輩が愛するスプラッタ映画の新作だ。

「い、いやだあああああ!」

 全力ダッシュで逃げようとした俺は、けれど一歩も踏み出せないままつんのめる。理由は簡単だ。

「逃げないでくださいね?」

 肘をつかまれたまま、ゆっくりと俺は頷いた。

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