3、あいの場合
十二歳から今までの記憶が、上手く思い出せない時がある。まだ、この街に来て、間もない頃のことだ。二年か、三年ほどしか経っていないのに、何故だか、存在すらしてなかったと錯覚してしまうくらい、さっぱりと記憶がない。
忙しかったのだろうか? 慣れない街で生活を始めたから。
多分、それもあると思う。お母さんと弟と三人で、毎日、大変だったのは覚えている。だけど、割れた鏡の欠けたピースのように、やっぱり思い出せない記憶がある。
ひなた。その名前を聞くと、無性に腹が立ち、平常心でいられなくなる。この街を捨てて、宇宙へ旅立った、新人類のアダムとイブ。
ラジオやテレビの中継を見ていた人なら、誰もが知っているはずなのに、私は彼女のことを一切知らない。
クラスメイトだった、と周りの人は言うのだけど。
雨が降っていた。ただでさえ暗い夜の世界は、雲に覆われて、より冷たく、より暗くなった。
山から帰ってきた次の日、そらたちはまたちあやのガレージに集まっていた。
二人がガレージに入ると、ちあやはあいから譲り受けたバイクをいじっている所だった。
「ちあやさん、おはよう」
「おはよう、二人とも。いい所に来たね」
油臭い軍手を外し、ちあやは寝不足の目を空に向ける。
「そら、鍵出して」
「え? ガソリンはこの間ので最後ですよ?」
「それじゃなくて、二番目のやつ」
怪訝な顔をして、そらはキーホルダーを取り出した。ちあやはそらを手招きして、あいのバイクのスロットルを指差した。
「回してみて」
そらが鍵を差し込むと、抵抗なく、根元まで入った。そして、回すと、セルが音を立て、エンジンが始動した。
「あれ!?」
「思った通り」
困惑するそらを尻目に、ちあやはバイクの不調箇所を指折り、数える。
「ひなたがバッテリーの予備を残してくれてて、本当に助かったよ」
エンジンがかかったことがうれしいのか、にこにこと機嫌のいい声を上げるちあや。
「待ってください、どうして、そらがあいのバイクの鍵を持っているんですか?」
ちあやの肩をがしっと掴んで、あすかはちあやを揺すぶった。がくがくと頭を揺らして、ちあやがあははは、と笑う。
「どうしてだろうね? 私にも分からないや、あははは」
「その笑い方は、知ってますよね!」
わざとらしい笑い声を上げるばかりで、ちっとも質問に答えようとしないちあやに、業を煮やしたあすかが、あーもう、と頭を抱える。
「そらも何か言ってよ!」
あすかは、そらの顔を見て、固まった。
「……そら?」
「ごめん、私、行かないと」
「え、どこに?」
ちょっと待ってよ、と叫ぶあすかを置いて、そらはガレージから飛び出していった。
「あの三人は、少し複雑なんだよ」
と言って、ちあやはあすかを慰めた。
そらが開け放しで出て行った扉から、冷たい雨と風が吹き込んでいた。
公園の真ん中で、焚き火の燠が燃えていた。街にキャラバンがやってくると、住民は集まり、祭りを開く。肉や魚、各地で探窟家が掘り出してきた缶詰などを調理し、みんなで分け合うという程度の集会だが、それでも、鬱屈とした夜の世界の、数少ない娯楽だった。またその日は、ひなたの出発の前日ということもあり、前夜祭を兼ねた宴はいつもより盛大に催され、夜も更けた今は、その熱気の余波が穏やかに公園を包み込んでいた。
そらは、焚き火の近くに座り、白く炭になった薪を枝で突き崩し、暇を潰していた。彼女の視線の先には、ひなたとあいの姿があり、何かを話している様子だが、その声はそらには聞こえない。
火の粉越しに、二人をじっと見つめるそらの表情は複雑そのものだった。ひなたとあいの距離が近くなったのを、うれしく思いつつ、そこに自分がいないことを、悔しがった。
歩けるようになった頃からの幼なじみ、と言っても過言ではない三人の付き合いの中で、秘密ができるのは、二度目だった。一度目は、ひなたとそらの間、あいの知らない場所でできた秘密だったが、あいとひなたの秘密は、そらの目の前で作り上げられている。
ふいに、ひなたがあいに何かを渡す。あいは手を振り払い、それを拒絶した。だが、それでも構わず、あいの手の中にそれを押し込んで、ひなたは笑った。
話を終えたひなたが、そらの方へ歩いてくる。
「話、終わった?」
「うん、待っててくれて、ありがとう」
「私には、話してくれないだよね?」
「ごめん。秘密の話」
そらは立ち上がり、スカートに付いた土を払った。
「あいはいいの?」
「……一人にしてほしい、って」
振り返ると、あいは手の中の光るものを見つめていた。
「ひなたの秘密はあといくつあるの?」
「これっきりだよ」
「私、ひなたが嘘をつく時の癖、知ってるよ」
「奇遇だね。私も知ってる」
かまをかけるなら、もっと上手にやりなよ、とひなたは笑った。
「だけど、もし全部知りたくなったなら、ちあやに聞いてごらん。話せることは、全部話したから」
「……ひなたから聞きたい」
ひなたは困ったように笑い、
「わがまま言わないで」
と情けない声を出した。
「私は、ここで生きていくことはないからさ。いなくなっちゃうから、あまり変なことは言いたくないよ。ひなたも、あいも、ちあやも、きっと変わっていくのに、私だけ、そこにはいないんだ」
ひなたはおかしなことを言う。この街を離れ、長く生きていくのは、ひなたのはずなのに。
「だから、私のこと、忘れちゃってもいいよ」
「忘れないよ! 私は絶対に」
「……泣くことないじゃん」
でも、うれしいよ、と言って、ひなたはそらを抱きしめた。
「あいのこと、責めないであげて」
唐突に引き合いに出されたあいの名前を、そらはひなたの腕の中で聞いた。耳を押し当てた彼女の胸に、あいが響いていた。
冷たい雨の中を走りながら、そらは、あいの悪口を思いつくだけ、毒づいていた。十種類ほどしかない罵倒のレパートリーを、ぐるぐると繰り返し口にして、顔面にたたきつける雨粒を睨み付ける。
ずっとずっと、そらは二人の背中を見てきた。誰よりも近く、誰よりも詳細に二人を見つめてきた彼女は、もしかすると二人よりも二人に詳しいかもしれない。アイデアマンのひなたと、批評家のあい。馬鹿げたこと、阿保らしいこと、楽しいことをひなたが口にすると、あいはそれをいつも口を酸っぱく、批判した。二人は同じくらい色々なことに詳しく、同じくらいの知識を持っていたから、お互い最高のコンビだった。口論が煮詰まってくると、ひなたはそらに向かって、手伝って、と叫んで、あいと喧嘩別れする。そらはそうやってひなたに話しかけてもらうまで、二人の会話に入ることができなかった。いつも一緒にいたけれど、隣には誰もいなかった。ひなたとあいは、そらの前を行き、決して振り返らない。二人と一人、そらはずっとそう感じてきた。ひなたの周りには、彼女の優秀さにつられて、すごい人たちが集まっていて、あいは不愛想ながらも、そつなく、その輪に入っていったが、そらは同じようにはできない。ひなたが振り返り、そら、と声をかけくれると、ようやく、その場に存在していいという許可を得た気分になった。
そらにとって、三人でいるということは、そういうことの繰り返しだった。
ある日、あいにそのことを相談したことがあった。二人の話についていけない、二人に置いていかれるような気がする、と。
「そんな訳ないじゃん。私もひなたも、そらを置いていったりしないよ」
そう言って、あいは否定した。それでも、納得していない様子のそらに、
「私は、そらのしてくれる話も好きだけど」
と照れたように、顔を背けて、言ったあいを、そらは信じることにした。
「側にいてもいいのかな?」
「別に、許可とる必要なんてないでしょ。そらが側にいたいなら、好きにすればいい」
二人に追いつきたい、という思いを、そらが口にすることはなかった。与えられるばかりで、与えることのできない自分が、二人の近くにいるのは間違っているんじゃないか。その思いは、今もそらの胸の中で育ち続けている。本当は、こう言ってほしかった。側にいてほしい、と。
けれど、あいも、ひなたも、そらに言ったのは、側にいるのはそらの自由だよ、というそれだけだった。
だから、そらは二人の側にいる。ただ、一緒にいたい、という一心で。
そして、それはまた、自分を傷付ける刃でもあった。自分自身のわがままを貫き通すことで、そらは二人に迷惑をかけているのではないか、という思いに苛まれた。自らの欲望を押し通すことが、概して、そういう性質を持つとも知らずに。
そらがあいの家に辿り着くと、あいは顔をしかめて、そらを家に入れた。
「ちょっと、ずぶ濡れじゃない!」
「あいに、伝えたい、ことがあって」
息切れの合間にも、もどかしそうに口を開いて、そらはあいを見つめる。
「な、何?」
「一緒に、太陽を見に……行こう」
そらはもたれかかるようにして、あいの肩を掴んだ。
「一緒に行って、それで、ちゃんとひなたに、お別れしないと……!」
あいは、そらの手を振り払い、しかめた顔をさらに険悪にする。
「勝手なこと言わないでよ。こっちの都合も知らないくせに」
「知らないよ。だから、誘えるんだよ」
深く息を吸って、呼吸を整えたそらの瞳は、いっぱいの光を称えていた。
「あいにどんな事情があるのか、私は知らないけど、もし、知っていたら、あいに何か言うことなんてできなくなっちゃうと思う。きっと、あいはそう言いたかったんでしょう?」
「な、何の話?」
「私は、二人に追いつきたかったよ。でも、二人とも、そうした方がいいなんて、一度も言わなかった。私は弱い自分が嫌だったけど、あいとひなたが、そんな私を好きでいてくれるのは、分かってたんだ」
そらの瞳から、光がこぼれ、頬を伝う。
「だから、私はひなたがいなくなっても、能天気に言うよ。あい、一緒に太陽を見に行こう」
あいは何か言おうと口を開いて、躊躇い、つぐんだ。唇を固く結び、そっと目を伏せる。
「あい……」
「すぐには答えられない」
上がって、とあいは言った。
「タオルと着替えを用意してくるから」
そらは着替えると、あいの部屋に通された。あたたかいお茶を飲みつつ、ベッドに腰掛けたあいの様子を伺うと、彼女は頬杖を突いて、窓の外を見つめていた。
「知ってると思うけど、この家には父親がいないの。私とお母さんと弟の三人で、どうにか暮らしてる訳。そこから、私がいなくなったら、どうなると思う?」
あいは、そらの方を見ずに、とつとつと話し始めた。
「弟はまだ小さいし、お母さんの負担だって軽いものじゃない。私のわがままで二人に迷惑をかけるわけにはいかないの」
それに、とあいは続ける。
「それに、私は太陽なんて見たくない」
言った後、あいは下唇を噛んだ。
「それは嘘だよ」
「……何が?」
「太陽なんて見たくないって話」
「分かるの? そらに?」
「嘘つく時の癖、私は知ってるから。それと、検問所でのこともそうだよ。あんなさびしそうな顔して、山の向こうを眺めてたのに、見たくないなんてさ」
あいは嘘が下手だね、とそらは薄く笑った。それにつられて、あいも苦笑いをこぼす。
「でも、家族のことは何も言えないや。誘ってるのは、私のわがままだし……。一緒に来てほしいのは本当だけどね」
両手で包むように持ったカップを覗き込み、そらは黙った。部屋には雨音が響き、どこからともなく、隙間風が吹き込んだ。
あいは、俯いた姿勢のそらを見つめ、口を開く。
「そら、私に秘密にしてることがあるでしょ」
びくっと身体を揺すり、そらはゆっくりと顔を上げた。
「どうして?」
「ひなたって誰なの? 彼女が私たちにどう関係してるの?」
あいは全部わすれちゃったんだね、とそらは呟いた。
「教えてあげない。これが私のたった一つの交渉材料だもん」
「つまり、知りたければ、付いてきてってこと?」
そらは頷いた。
「ずるくてごめん」
「私は嫌いじゃないよ、そのずるさ」
出発はいつの予定、とあいは尋ねる。
「来てくれるの?」
「それはまだ。一応、聞いておこうと思って」
そらはわずかに落胆しながら、
「ガソリンが手に入り次第ってことになってる」
と言った。
「それでもタイムリミットはあって、どうしてもガソリンが手に入らない場合は、歩いてでも行こうとは思ってる」
それを聞くと、あいはまた思案顔になって、窓の外を眺めた。ガラスを滑り落ちる水滴の軌跡がいくつも、稲妻のように視界を裂いた。
「私、今日はもう帰るよ。邪魔しちゃ悪いし……」
そう言って、そらが立ち上がる。あいは視線を戻し、
「いいよ、泊っていきなよ」
と言った。そして、
「それに貸す傘もないしさ」
と微笑む。
それを見て、そらは照れくさそうに頬を染め、ありがとう、と笑った。
雨音が強く、あいの部屋の窓を叩く音が響いていた。
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