2、ちあやの場合
私は、自分は頭がいい、と信じてきたし、今もそう悪くないと思っている。学校の勉強は授業を聞いているだけで充分だし、説明書があれば、大抵のものは作れてしまう。機械いじりは、父親の仕事を見ている内に習った趣味で、家電の修理くらいなら何でもこなせる。苦労を知らない小童と評されるなら、それも多分、間違ってはいないだろう。現実世界はコンピュータの中のシミュレーションなのだ、という実感を持っていた頃の私は、生意気なガキだったから。
マクロを組んで、数値を代入すれば、ご覧の通り、結果が出力される。どんな場所で作っても、ミックスジュースはミックスジュースなのだ。
けれど、そんな世界を打ち破ったのは、ひなただった。私にとってのカオス理論。
私の知る限り、完璧超人とは彼女のことを指す言葉だ。なにせ、人類の新たなアダムとイブに選ばれるほどなのだし。
とにかく、滅びゆく世界で私が無様にあがいているとしたら、それは何といってもひなたの責任だ。
彼女が教えてくれたほど、世界の手触りというのは、なめらかではない。
そら、ちあや、あすかの三人は古ぼけたガレージの中にいた。部屋の真ん中には、バイクが置かれ、用途の想像もつかない奇妙な工具が、壁にかけられている。
「ひなたが準備のいい子で本当に助かったよ」
と、ちあやが二人に振り返る。
「スペアパーツが全て、揃えてあったから、修理は問題なく済んだ。何なら、もう一台バイクが組めるほどだったよ」
ただ、と声の調子が低くなり、
「問題はガソリンだ。相変わらず、燃料が足りないし、それに、あすかちゃんも一緒に行くことが決まって、さらなる問題も発生したかなー」
呑気にバイクを眺めていたそらが、
「何ですか?」
と口を開く。
「バイクが足りない」
元々、そらとちあやの二人乗りで、地平線の果てを目指す計画だったのが、あすかの参加によって、崩れた。三人乗りも不可能ではないが、その上で、荷物を積むということは現実的に厳しかった。
「でも、私、バイクの運転なんてできません」
弱腰のあすかが、ふるふると首を振る。長い髪がふわりと揺れた。
「できないじゃなくて、練習するの」
「そ、そういうちあやさんは運転できるんですか?」
「私? できるよ」
だって自転車と同じでしょ、と続いた文句に、あすかは眉をひそめる。
「あすかちゃんは自転車も乗れないもんね」
と口をはさんだそらを睨み付け、あすかは挑むようにちあやを見つめた。
「予備のバイクがあるんですか?」
ちあやはガレージの真ん中に据えられたバイクに視線を移し、
「あることはある」
と曖昧な返事をした。
「それより、ガソリンの件はどう?」
「まだ交渉中です」
「それじゃあ仕方ない。そら、あれ貸して」
ちあやはそらから受け取ったキーホルダーの内、一つの鍵を選び出すと、ガレージの棚を開け、その内側の金庫に、鍵を使用した。
「これで本当の本当に最後だ」
取り出したのは、ガソリン携行缶だった。
ちあやは携行缶をあすかに持たせ、自分はガラクタの山に手を突っ込んで、何かを探す。
「中身、ほとんど入ってないですよ?」
ちゃぽちゃぽ、と中身を揺らして、あすかが尋ねる。
「それ、ひなたが残してくれた秘密のガソリンなんだ。初めは、その缶いっぱいに入ってたんだけどね」
と、そら。
「それを使うということは、つまり、この旅が成功するかは、あすかちゃん次第ということになるね」
そう言って、ちあやは笑った。
そして、ガラクタから目当てのものを見つけたのか、小さく感嘆の声を漏らして、手を引き抜くと、そこには古臭い鍔付きの半キャップがあった。
「まずは、バイクを探しに行こうか」
目的地は、ちあやの祖父の旧宅だった。峠を越えたところにある高級住宅街の、ちょうど中ほどにある。隕石の衝突後、街に下りてきた彼女の祖父母は、身一つで山を下りてきたため、家具も車もほとんど手付かずになっているはずだ、というのがちあやの説明だった。祖父がぶらりと遊びに出るのに使っていた原付バイクが、旧宅に眠っているというのだ。
だが、峠は街から見て東にあり、そこはつまり、交通の要衝でもある。街に届く食料品や日用品の数々は、そこを通って、街へやってくる。また、地球滅亡の発表の以前から、少しずつ悪くなっていた治安を守るため、そこには自警団が検問を張っているはずだった。
原付バイクに乗り込んだ三人は、ふらふらと街の大通りを走っていく。ふらふらと心許ない今日の運転手は、ちあやだった。
「検問があるのは、山の頂点の休憩所なのは知ってる?」
ちあや、あすか、そら、と並び、声が聞こえた順に首を振る。
「実は、山を少しのぼったところに、今は使われていない旧道が通っていて、もちろん廃道の名にふさわしい荒れ具合らしいけれど、人が歩いていくくらいはできるっていうんだ」
「そこをバイクで行くんですか?」
「あんまり道がひどければ、押していくよ」
「……何もなければいいですけど」
とあすかが不安な声を上げたところで、バイクは峠の坂道に差し掛かる。三人を乗せたバイクは、悲痛な叫びを上げて、エンジンを回した。それでも、三人分の重さに、どんどんと減速していくのだが。
旧道は、ちあやの言葉通り、ものすごい荒れ模様だった。アスファルトは割れ、濃密な下生えがはえており、伸び放題。標識、カーブミラー、ガードレールのどれも苔がびっしりとこびりつき、果てには、ガードレールの端は錆びで朽ち果てようとしていた。さらに、道の脇に生えた木々は好き放題に枝を伸ばし、月灯りの届かない絶対的なくらやみを作り出していた。
「本当に、行くんですか?」
あすかの消極的な言葉に、
「行くしかないでしょう」
とちあやが釘をさす。目の前を、バイクの前照灯が弱々しい光で照らしていた。鬱蒼とした寒々しい森の入口は、絵本に出てくるような魔女の住処を思わせた。
「あ、そら?」
草を掻き分けて、ずんずんと進んでいくそら。ふと立ち止まり、ちあや達の方へ振り返った。
「ここ、獣道になってるよ」
草の合間に埋もれるように、か細い道が通っていた。
「この道を誰かが利用しているみたいだね。人とは限らないけど」
「ちあやさん、怖いこと言わないでください!」
意地悪な笑みを浮かべ、ちあやはあすかをからかった。子どもみたいにじゃれつくと、あすかは呆れた目でちあやを見つめ、邪険に扱った。
「ちあやさん、ちょっと変ですよ」
「きっと、怖いんだよ。ちあやさん、中学生になるまで幽霊、信じてたから」
あ、とも、わ、ともつかない声を上げて、ちあやはうろたえた。
「し、信じてる訳ないだろう」
ちあやは、そらにそっと近付いて、その話はしないって約束だろう、と耳打ちする。
「そうでしたっけ?」
と、そらは笑った。
バイクの前照灯を頼りに、三人は獣道を歩く。周りはまったくのくらやみで、聞こえるのはバイクのエンジンが震える音のみ。月の光が枝葉にかかり、木漏れ日のように、下生えに降る。そのまだら模様の道を踏みしめた時だった。
きゅい、きゅい、きゅい、と警告音が鳴り、道端のガードレールで何かが赤く光った。
「わ、え、何?」
とあたふたするあすか。ちあやは彼女の腕にぎゅっとしがみついた。
「ちあやさん、バイク倒れちゃうから!」
ちあやが手を離したバイクのハンドルを掴み、あすかが彼女を叱る。
「二人ともバイクに乗って!」
先頭を行くそらが、鋭く声を飛ばす。
「多分、人感センサーだよ。自警団が付けたんだと思う」
あすかの背中にぴったりとくっつき、ちあやが説明する。
「私、運転できないんですけど!」
「大丈夫、私も初めは下手だったから」
と慰めるそら。
「早く、そらも乗って!」
あすかが叫ぶと、そらは首を振った。
ガードレールに取り付けられたセンサーから、声がして、
「お前ら、そこを動くなよ!」
三人ともだ、と怒号が飛ぶ。
「私は、追っ手を引き付けるよ。三人じゃ、スピードも出ないし」
「でも――」
「――どこで落ち合う?」
あすかの言葉を遮って、ちあやがそらに尋ねる。
「検問所で待ち合わせよう」
と言ったところで、背後から草を掻き分ける音が聞こえてきた。
「それじゃあ、解散!」
ちあやは渋るあすかの手ごと、アクセルを捻った。バイクは走り出し、あすかはそらの心配どころではなくなる。
相変わらず、背後では追っ手の立てる物音が聞こえ、道は暗い。
そらはあすかたちの背中を見送り、ガードレールを飛び越えて、左へ向かって走り出した。新道へ出て、検問所へ向かうつもりなのだろう。
「こら、待てー!」
捕物帳のような叫び声が、峠に響いた。
あすかとちあやの二人は、暗い森の奥へ続く獣道をひたすら真っ直ぐ、進んでいた。気付けば、追っ手の足音はもう聞こえない。バイクはのろのろと走り、ガソリンを浪費しないよう、低回転でエンジンが回る。
「そら、逃げ切れましたかね?」
「どうだろう。無事、新道まで辿り着ければ、安全だろうけど」
と言って、ちあやは辺りを見回した。どこも深い森のくらやみが広がり、音さえ紛れる漆黒が一寸先を塗りこめる。
二人は再び、無言になった。小走り程度の速度で、バイクは走っていく。
ふと、あすかが前方に何かを見つけた。
「ちあやさん、あれ」
彼女の視線の先には、白くたなびく帯状のものがあった。
「あれは、煙?」
ゆらゆらと揺れて、それは道に覆いかぶさった枝葉の間に消えていく。煙の立ち昇る根元は、わずかに明るくなっていた。
「焚き火でもしてるんでしょうか」
「どうも、消えかけみたいだけどね」
近付いてみると、それは果たして、焚き火の跡だった。燃え残った炭が燻ぶって、灯り一つない森をほのかに照らす。見れば、ここはよく火が焚かれるのか、下生えがなく、円形に土が露出しており、空を覆う木々の葉も、火に温められて、紅葉していた。
「自警団の人ですかね?」
「……」
ちあやは辺りをきょろきょろと見回し、あすかにぴったりとくっついた。
「怖いんですか? 私より年上なのに」
薄笑いを浮かべたあすかは、ちあやの表情を見て、怪訝そうに眉を寄せた。
「あすか、バイクのエンジンを切ったらダメだよ」
ちあやが小さく囁いた時、焚き火の向こうから、枝を払い、一人の男が現れた。
「あ? 珍しいな」
ひどく痩せかけた頬が、熾火の灯りで見えた。深い影が男の顔中に差し込み、くらやみに浮かび上がったような瞳が、ぎょろりと二人を見据えた。
「こんな所でどうしたんだ? 迷子にでもなったのか? どこへ行くんだ? 俺が案内してやろうか?」
男は笑った、ように見えた。口を三日月形に歪めたが、そこはぽっかりと洞のように暗かった。
「私たち、峠を越えて、別荘に行くんです」
「ああ、別荘か。おつかいか? それとも泥棒か?」
「その両方ですかね」
にこやかに雑談するあすかの後ろで、ちあやは彼女の腰に手を回し、ゆっくりと後ずさった。ちあやの動きにつられ、あすかも静かに後ろへ下がっていく。
「あの、ちあやさん、何してるんですか?」
「しっ、静かに」
男に聞こえないくらいの声で、二人は言葉を交わした。
「バイクなんて、今時珍しいな。俺も昔はよく乗ったもんだよ。なあ、少し俺にも乗せてくれないか?」
「悪いけど、友だちを待たせていて、もう行かないと」
「そんな連れないこと言うなよ。ほんの少しだけだよ。ちょっと一回り」
ざく、ざく、ざく、と土を踏みしめ、男が二人を近付く。焚き火を迂回して、あと一歩で腕が届くという距離で、背後から鋭く、笛の音が響いた。
「お前たち、動くな!」
男女一組の自警団が、警棒を振るい、獣道を進んでくる。
「どうしよう、ちあやさん。また逃げる?」
あすかは後ろを振り返り、ちあやに尋ねた。
だが、ちあやは男から目を離さず、じっと身を固めていた。
「ああ、連れがいたのか。残念だなあ。もしよければ、別荘までは俺が案内したんだけどなあ」
男は二人を見つめたまま、ゆっくりと後退した。熾火の灯りが届かないくらやみに、溶け込んでいくように、男は下がった。
自警団が二人に追いつくと、彼はすっかり闇に消え、いなくなった。
「あなたたち、二人だけ?」
自警団の女性が、二人に声をかけた。
「は、はい」
と怯えたようにあすかが答える。自警団に捕まってしまったという焦りが、表情に出ていた。
「あなたたちの身柄を拘束させてもらうわ。検問所まで連行します」
バイクのエンジンを止められ、あげく、二人は鍵まで没収された。
「ちあやさん、これまずいよね?」
とあすかが尋ねるが、ちあやは辺りを警戒し、あすかの声が耳に入っていないようだった。
「ちあやさん!」
肩をゆすぶられ、ちあやはようやく我に返る。
「な、何、あすかちゃん」
「何じゃないですよ。私たち、捕まっちゃったんですよ?」
「……いや、それでよかったと思うよ」
え、とあすかが声を漏らす。
二人は自警団に連れられ、獣道を引き返していた。先頭を行く自警団員が頭に付けた石灯が、ぼんやりと道を浮かび上がらせる。
「あすかちゃんは気付かなかったの?」
「何のことですか?」
「さっきの焚き火の周り、白かったよね」
「……炭、ですよね?」
一瞬、ちあやは言い淀んだ。口にすべきか、悩んでいるようにも見えた。
「動物の骨だよ。それも大型の」
わずかに思案し、鹿とか食べるんですかね、とあすかは呑気に答えた。
一方、そらは自警団に捕まり、ちあやとあすかの二人より先に、検問所に連れてこられていた。薄暗く、寒い事務所に閉じ込められ、軽く一時間は経っていた。
検問所は峠の頂上の開けた場所にある。隕石が衝突する前は、日の出を拝む観光地として有名だったため、今も、広い駐車場と展望台が残り、自警団がそれを利用し、活動している。
事務所の窓からは、ちょうど広い駐車場が見えていた。そらが捕まってからは、二台ほどのトラックが街へ下りていったきりで、検問は平和そのものだった。
時折、自警団のメンバーがそらの様子を見に来たが、話しかけもせず、すぐに事務所から離れていった。おかげで、そらは暇を持て余し、天井の染みを右端から数える羽目になっていた。
すると、外でエンジン音が聞こえ、そらの視界に一台の大型トラックが滑り込んできた。運転席から下りてきたのは女性で、そらは少し驚いた。
運転手は、そらの視線に気づいたのか、事務所に目を向ける。彼女はひらひらと手を振り、助手席に何か話しかけたようだった。
彼女は助手席から下りてくると、真っ直ぐに事務所へやってきて、扉を開けた。
「そら、そこで何してるの」
「……あいの方こそ、何してるの?」
事務所の入り口に立っているのは、高木あいだった。ふわふわの猫毛を後ろで一つ結びにして、普段より活動的な印象を受ける。
「私はお母さ……母の手伝い」
「あいのお母さんって」
「ドライバー。昔っからね」
自警団に付き添われて、あいの母が事務所へ入ってきた。
「久しぶり、そらちゃん。みんな元気にしてる?」
「はい、みんな……元気です」
自警団は、あいの母に書類を渡し、一度ちらりとそらを見た。
「そら、どうせ暇でしょ。一緒に来てよ」
あいの誘いに、そらが事務所を出ても、自警団は何も言わなかった。
「どこ行くの?」
「展望台」
ゆうに百台は車の停められそうな駐車場を縦断して、あいとそらは崖際の展望台へ歩みを進めていく。
「どうして、あんなところにいたの?」
「え?」
「だから、どうして、検問所で捕まってるのって話。私だって話したんだから、次はそらの番でしょ」
そらの前方に、櫓のように組まれた展望台が見えてきた。ともすれば、アスレチックの遊具にも見えかねないそれは、月灯りの中、ひっそりとたたずんでいた。
そらは、別荘にバイクを取りに行く予定だったことを、あいに話した。その途中で、自警団に捕まったのだ、と。
「バイクが欲しいの? 何で?」
「あすかちゃんの分が増えたから」
「ああ、そういうこと? 私、あの子からガソリンを譲ってほしいって頼まれてるの。仕事で使う分、優先的に配給されてるからさ」
そらは、無言であいの話を聞いていた。あすかのあて、というのは、あいのことだったのか、と。
「太陽を見に行くって本気?」
「うん。あいも一緒に――」
あいは、展望台の階段に足をかけた。
「それは無理。で、何で?」
「……ひなたとの約束だから」
「ひなた、ひなたってみんな言うけどさ、それ誰なの? 神様か何か?」
階段を昇る途中、あいはそらの方へ振り返った。
「……本当に覚えてないんだね」
「何の話?」
「何でもないよ」
そらは、あいを追い越して、展望台のてっぺんへ駆けあがった。
そこからは山の峰々が一望できた。深い緑の山肌が、月灯りを浴びて、黒く照り映えている。のこぎり状の山の端がじぐざくに交差して、遠く続くと、地平線には橙色の太陽の残滓が顔を覗かせた。
「太陽なら、ここで充分」
東から流れてきた雲に、太陽の光が当たり、薔薇色に染まっていた。形を変えつつ、西へ運ばれていく雲は、一人ぼっちの羊のようだった。
「そこら中に見える煙、分かる?」
あいは、あちこちを指差した。
深い暗緑の合間から、野火のような煙が幾筋も立ち上り、夜空に消えていく。風に吹き流され、煙は一様に、西を向いていた。
「こんな山の中でも、人が暮らしてるのよ」
「街には下りてこないの?」
「ここで暮らしてる人たちは、以前、街に受け入れを拒否された人たちなの。よその街から来た人や、住んでいた地区が閉鎖された人たち。だけど、どこに行くこともできず、ここにいる」
風が、あいの髪をさらった。色素の薄い茶髪は、月の光を受けて、黄昏のような色で輝く。
「それでも、あなたは太陽を見に行くなんて言うの?」
そらは、あいの横顔を見つめていた。豊かな髪に埋もれた身体は、一目では分からないけれど、細く痩せている。彼女自身も、彼女の家族も五年前に街の外からやってきたことを、そらは知っている。なぜ、彼女の一家が街に受け入れられたかというと、それはあいの母親がトラックを街に持ち込んだからにすぎない。役に立つものは受け入れる。そうでないものは拒絶する。限られた資源の中、生きるためには仕方のないことなのかもしれない。
「あいの言いたいことは分かるよ。でも、それが、私のしたいことを否定する理由にはならないと思う」
あいが、ゆっくりと振り返る。
「それに、世界にかなしみがあるから、喜んではいけないんだとしたら、ひなたはこれからどう生きていったらいいの? 私たちを置いて、出て行ったひなたが、これから先、ずっと落ち込んでいなきゃいけないのなら、私はそんなの間違ってるって言うよ」
あいは、そらの瞳をじっと覗き込んだ。何の感情もない、ふつうの顔をして、ただ目を見つめた。
「私は、私の近くにいる人にしか、やさしくできないよ」
それを聞いて、あいは安心したように微笑んだ。
「そう。そらはそういう考えなんだ」
あいは展望台の手すりに寄りかかって、空を見上げた。夜空には変わらず、鬱陶しいくらい大きな月が浮かび、夜の青を薄めて、照らす。あまりに近すぎる月に、うさぎが住んでいるとは、もはや誰も信じない。
「ごめん、そら。私、いじわるしちゃった」
「え?」
そらの方へ向き直り、今度は不敵な笑みを浮かべるあい。
「今の言い方はずるかったと思う。他人のこと引き合いに出して、そらのこと、いじめるなんてさ。だから、ちゃんと言い直すね」
太陽を見に行きたいなんて能天気なこと言う、そらのこと、私は大っ嫌い、とあいは言って、笑った。
「私は、あいのこと、好きだよ」
あはははは、とあいは大きく口を開けて、笑い声を上げた。駐車場に、あいの声が響き、景色がくわんくわんと揺れるような気がした。
ちょうど事務所から出てきたあいの母親が、展望台のあいとそらに向かって、手を振る。
ひとしきり、笑い終わると、目尻を拭い、あいは口を開いた。
「そらは、私にやさしくしてくれるんだね」
展望台の階段を下りる途中、あいは囁くように、
「バイクなら、家にあるけど」
と言った。
「……もらってもいいの?」
「どうせ乗る人もいないし、それに鍵もなくなっちゃったから。ちあやなら、そういうの直すの得意でしょ?」
「ありがとう、あい」
それに、彼女は応えなかった。
事務所の辺りまで戻ると、あいは助手席の扉を開けて、そらに振り返った。
「乗らないの? どうせ、街に帰るんでしょ?」
「あすかちゃんとちあやさんを待ってないと」
「それなら、ちょうど来たみたいだけど?」
あいの視線の先には、自警団に連れられた二人の姿があった。
「そのまま、バイクも持ってちゃってよ」
そらは、あいのやさしい笑顔を、何とも言えない気持ちで見ていた。
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