クレッセント

深川夏眠

crescent


 しばらく前まで、の座右の銘は「朝露の滴るシロツメクサに埋もれて死にたい」だった。古い少女漫画に感化されて、脳が乙女モードに入ったのだ。

 それはともかく。僕とちー兄ちゃんは従兄弟であり親友マブダチでもある。ちー兄ちゃんは読書家で凝り性で、いつも面白い話をしてくれるけれど、落ち込むと浮上するのに時間がかかる。亡くなったおじいちゃんが遺した離れを自室にしているが、ここのところ、また籠もりきりで、伯母さんは閉口しているそうだ。

 どうせ食事も碌に取っていないんだろう。シロツメクサならぬがみの山に押し潰されて息も絶え絶えではなかろうかと想像しながら、ファストフードとスナック菓子を買い込んで様子を見に行くと、彼は近所迷惑スレスレのボリュームで音楽を聴いていた。最近一部で話題の、ちょっと変なバンドで、古いジャズのナンバーを煌びやかなハードロック調にアレンジした曲だ。

「兄ちゃん俺オレ、だよ入るよ、開けるぞ」

 ちー兄ちゃんの髪はボサボサ、髭もまばらに伸び始めていたが、和室は清潔で、小説の書き損じだのティッシュペーパーだのがグシャグシャに散乱しているわけではなかった。それらは乱れ箱に収まる範囲でうずたかく積み上がっていた。ちー兄ちゃんはBGMのボリュームを少し下げ、やっと聞き取れるぐらいの小声で「まあ座れや」と言った。僕は座卓に買ってきたものを広げて、に身を預けた。

 スクラップブックにくだんのバンドLunaルーナ・ d'argentoダルジェントの記事の切り抜きやら何やらが、作業の途中らしく、まだ整理されず、乱雑に散らばっている。月の裏側から来訪したとの触れ込みで、素顔を塗りつぶす分厚いメーキャップ、銀色に光るラテックス素材のボディコンシャスなコスチュームという怪しいち。メンバー五人とも結構ななのだが、しかし、実は全員男性で、中性的なムードを醸そうとしたところ、調子に乗って胸のパッドを盛り過ぎたのだろうと噂されている。

「兄ちゃんのはこれか。頽廃的だな」

 ちー兄ちゃんは頷くでもかぶりを振るでもなく、ポテトチップスを貪り、コーラを喉に流し込んでから、

「夢魔に苛まれて熟睡できない」

「そりゃあ、大音量で同じ曲ばっか繰り返し聴いてたら変な夢も見るでしょ。こんなバンドだし」

 吐息を漏らす兄ちゃんの背後に、メッシュ素材のベビーサークルがあって、中には派手な色の謎のオブジェがいくつか転がっていた。直径十センチぐらいのおもちゃのようだが、よくわからないので重くなった腰を上げ、近寄って眺めた。張り子のアダムスキー型UFOだった。

「内職?」

 返事はない。物作りに勤しむのは感心だが、これが金になるとは思えないし、本人にもそのつもりはなさそうだ。一浪一留の身で通学もせず、こんなことをされては、伯母さんも心労が募るはずだ。

「願掛け?」

「……まあ、そんなようなもんだ」

 ちー兄ちゃんがクロワッサンの玉子サンドにかぶりつきながら語ったところによると、悪夢の狭間に天使のお告げがあって、旅立ちの準備をしろと言われたとか。

「どこへ行くっての。第一、どうやって乗り込むのさ、あれに」

 ×××の「ひみつ道具」を貸してもらえるはずもなし。兄ちゃんは気を紛らして何らかの苦しみを和らげるために、せっせと手作業に励んでいるのだ。これを何個か、何十個か完成させたら満願成就、その晩の夢の中で身体が縮小するか、逆に庭に巨大化した張りぼての円盤が出現して、めでたく宇宙の旅と相成るのかもしれない。とはいえ、いっとき遊覧して気が済んだら、彼は娑婆に着地するのだろうか……。

「一つやるよ」

「ありがとう」

 まったく興味はなかったが、有無を言わさぬ圧力を感じたので不本意ながら受け取った。もうじき七夕だから、短冊を下げて笹に括りつけ、協力してやってもいい。二十一世紀のセンシティヴ・マンが月へ飛んで行けますように……とか。

「確認するけど、願い事って?」

 兄ちゃんは髪を掻き毟り、一頻り苦悶の唸りを漏らして顔を上げ、

「……夜空に消えたい」

 現実逃避か。自分探しは、せめて大学卒業後にしてはどうかと呆れていると、

「三日月の牙に貫かれて死ねれば本望だ」

 以前読んだ小説の中の印象的なシーンが脳裏に蘇った。空前絶後の劇的な死にざまを夢想する富豪が、望みどおりショッキングな最期を迎える場面。月まで飛ばねばならない分、ちー兄ちゃんの方が上を行っていると言えるが、死や失踪だのを夢見る暇があったら浮き世の問題を解決すべきではないか。

 だが、兄ちゃんは同じアルバムをリピート再生して、重厚なリズムと華麗なギターテクニック、妖艶なキーボードの調べ、そして、金属的なハイトーンヴォイスに酔ったように、小刻みに頭を揺らしながら手慰みに戻った。会話にならないので、僕は短く別れの挨拶をして部屋を出た。

「あ、伯母さん、お邪魔しました」

「みー君ちょっと待ってね。お裾分けがあるから」

「いつもすいません」

 佐藤錦だ、嬉しい、ありがたい。しかし、伯母さんは表情を曇らせて、

「どんな様子だった?」

「相当ますね。リカバリに時間かかりそう」

「やっぱりショックが大きかったのかしら。だからっていつまでもられちゃ鬱陶しいし……」

 では、伯母さんは事態を把握しているのか。

「いくら失恋したからって、暗くなり過ぎよね。メンタル弱いったらありゃしない」

 おやおや、予想外の内情暴露。

「みー君、写真見てない?」

「ええ」

 というか、ちー兄ちゃんに恋人がいたのも初耳だ。伯母さんはポケットからスマホを引っ張り出して、秘蔵フォトを披露してくれた。そのが遊びに来たとき、ツーショットを撮影したのだそうだ。

「あの変人にしちゃ上出来。っていうか、よく付き合ってくれる気になったもんよね、短い間とはいえ」

「へえぇ」

 写っていたのは僕がそれまで見たことのなかった、ちー兄ちゃんの素直で快活な笑顔。寄り添っているのは色白で小振りな丸顔にショートカットの、少し耳の大きい、聡明な印象を与える女の人だった。大人が時折口にする「どこに出しても恥ずかしくない娘さん」といった風情で、伯母さんも合格点を出すだろうという気がした。ペンダントを提げている様子だが、彼女の手の位置のせいで鎖しか見えていない。けれども、ひょっとすると、ちー兄ちゃんが奮発してプレゼントした品ではないかと思った。

「ただ、いろいろ忙しくなって、満足に話もできなくなったとかで、自然消滅みたいな。諦めがつかないらしくて悶々してるけど、しょうがないじゃない、ねえ?」

「……」

 帰る道々、大喧嘩や、他に好きな人が出来ただとかで愛想を尽かされたのではなく、嫌いになったわけではないが交際の継続が困難だと告げられた兄ちゃんは、心配半分、嫉妬半分で不安に駆られているのか……と、ようやく多少、同情の念が湧いてきた。が、やはりそれ以上に、恋愛アウトサイダーの典型たる彼が恋人を得てのち、別離に身悶えしているというのが晴天の霹靂に等しく、僕は裏切られたような苦い気分を味わいつつ、いただき物のサクランボを摘み食いしながら、トボトボ家に戻った。


 衣類や小物を引っ掛けるフックを使ってUFOを部屋に飾った。黄色いアクリル板を円錐形にして短冊の代わりにぶら下げれば、トラクタービームに見えて愉快じゃなかろうか。……否、そこまでする気になれなかった。風が当たると軽くポコッポコッと音がした。中に何か入れたのだろうが、鈴の風雅な囁きには程遠い。

 ベッドでウトウトしていたら、鋭く差し込む光を感じた。飛び起きると、まるでが子供を産み落としたかのように、底部からプリッと小さなゴム人形らしきものが出現した。それはべチャッと音を立てて床に落ち、自身を包み込む白濁したスライム状物質の中でもがき苦しんでいたが、ややあって、よろめきながら立ち上がった。小さなハンプティ・ダンプティだった。

 そいつはニヤニヤ笑って僕に両手を差し伸べた。あと退ずさりしようとしたが、それは二本の鞭のように鋭く飛んできて、動きを封じられてしまった。と、思う間に、手足の生えた卵型エイリアンの腕が縮み、吐き気を堪えて固く目を瞑った僕が恐る恐る瞼を持ち上げると、そこは円盤の中で、エレベーターが上昇する調子でフッと宙に浮いたが、後はほとんど振動もなく、窓に手を突いて外を見ると、無数の星屑が急降下していた。

 振り返れば船内は十畳ほどの無機質な空間で、作り付けの丸いテーブルがあり、ハンプティ・ダンプティは中央の窪みをエッグ・スタンドとしてスッポリ収まって寛いでいた。確かに、高所に腰掛けていては命がいくつあっても足りなかろう。天井を見上げると漏斗状のへこみ。床にも同様の吸い込み口。そこに頭を突っ込めば上下の階層に移れるのだろう。バベルの図書館があって司書がいるのかもしれない、ちー兄ちゃんが大喜びしそうだ……などと考えていると、飛行物体は斜め上に針路を取った。尻餅を突いた床は低反発マットレスのように僕を受け止めてくれたので、ホッとしたのも束の間、起き上がるのに苦労した。

 やっとのことで窓際へ這い寄ると、機体はホバリング状態で、水族館のアクリルガラスを通して対象物を眺める感覚を味わった。衝撃が大き過ぎると却って悲鳴など出ないと誰かが言っていたが、僕もまた、口を半開きにして茫然と情景に見入るしかなかった。おじいちゃんが生きていた頃、時々釣りに連れて行ってもらっての当たりにしたイソメやゴカイのを彷彿させる、脳天から背筋を貫いて釣り針に括られた餌さながらの生贄が、アルテミスへの捧げものよろしく銀色の鋭い三日月の下端にぶら下がって血を流していた。俯いているし、髪も乱れて顔は定かでないが、背格好や風体で、ちー兄ちゃんだとわかった。

「夢が叶ったじゃないか」

 宇宙じんが霜のように舞い降りて兄ちゃんを覆う。彼と無慈悲な女神の蜜月は永遠に凍結されるのだ。

「ワハハハッ……!」

 大声にビックリして振り返ると、ハンプティ・ダンプティが身を揺すって哄笑していた。と、見るや、ヤツの口に罅が入り、次の瞬間、愚か者が電子レンジで加熱してしまった生卵同様、ボンと炸裂した。


 ……というのは夢で、うたた寝していた僕は隣家の怒声で跳ね起きたのだ。俗に言う「爆発たまご」騒動が勃発した模様。今時まだそんな事故を起こす人がいたとは。

 けっぱなしだったラジオの音量を下げた。ルーナ・ダルジェントの曲が流れていた。ふと、ちー兄ちゃんはもしや、楽器も弾けないくせにバンドに入りたくて悩んでいるのだろうかと思った。この独特の音楽がとの重要な結節点だったのかも――と。

 喉が渇いたので台所へ。前後して母のスマホに着信音。佐藤錦ありがとう、ごちそうさま……と、いうことは相手は伯母さんだ。すると、

「えっ?」

 急に声のトーンが変わった。眉間に見る見る皺が刻まれていく。母は深刻な面持ちでウンウン頷いていたが、手振りで僕に代われと合図した。

「もしもし?」

「あっ、みー君ごめんね、ウチの馬鹿野郎が何か言ってきてない?」

「今日、会ったきりだけど……」

 伯母さんの弁を整理すると、要するに、ちー兄ちゃんが家出したらしい。フラッと出かけて数日帰らないくらいのことは珍しくなかったが、冷蔵庫にマグネットで行き先などを記した紙片をそっと留めていき、土産を提げて帰ってくるのが常だったにもかかわらず、今回はそれもなければ、伯母さんから連絡を取ろうとしてもシャットアウトされているし、和室を覗いてみたら凄まじくきれいに片付いているので、不吉な予感がするというのだった。

 ひとまず兄ちゃんのご学友で僕も面識のある、たった一人のアドレスを伝えて、話を終えた。他にはどうしようもなかった。


 次の日、母からのお返しを携えて出かけた。がよく、いつもドッシリ構えた伯母さんが、目に見えて憔悴しているのが気の毒だった。成人男子がフイと出て行ったくらいで大袈裟だと他人は言うかもしれないが、親だけが持つ直感が働いているのだろう。

 離れに上がらせてもらった。薄気味悪いくらい整頓され、塵一つ浮いておらず、ここがこんなにスッキリしたのは、おじいちゃん亡き後、初めてではないかと思った。ベビーサークルは隅に追いやられていたが、張り子UFOは一昼夜でかなり増殖していて、そこだけが異様な雰囲気を湛えていた。

 手掛かりがあるとしたら金庫だ。テンキー式。おじいちゃんはきっと自分自身か、おばあちゃんの誕生日を暗証番号に選んだだろうが、教えてもらった数字をちー兄ちゃんが引き継いだとは思えない。馬鹿げた語呂合わせに変更したに決まっている。しばし試行錯誤して、正解に辿り着いた。15494649。イゴヨクヨロシク。以後よくよろしく。以前、兄ちゃんに借りて読んだ本の中の言葉遊びだった。

 出てきたのはフォトブックと分厚い封筒、その他。被写体はほぼだった。ちー兄ちゃんは二人で近場の観光名所を巡った際、夢中でシャッターを押しまくったようだ。彼女が風に煽られたスカートを押さえながら「撮るな!」と言いたげに頬を膨らませつつ笑っているとか、美味しそうにクレープを齧っているだとか。親密さが伝わってきて、微笑ましいやら妬ましいやら。

 それから、彼女が黒いハイネックの服に印象的なペンダントを飾った、サイズの大きな画像が現れた。プラチナだろうか、銀色のげつのオーナメントが滑らかな艶を放ち、下部に一粒、ダイヤモンドが冷ややかに輝いている。兄ちゃんが言った三日月の牙とは、これを指していたのか。彼女と別れるくらいなら、足手まといだと疎まれた挙げ句、激昂されて刺された方がだとでも言いたかったのか。

 しかし、次のページを開いて、

「ウェッ!」

 つい、奇声を発してしまった。ルーナ・ダルジェントのメンバーのうち、恐らくキーボードのMareマルエ・ NecネクtaターrisリスとドラムのPalusパルス・ Somniソムニが肩を寄せ合い、メロイック・サインをいる。こうしてまじまじ見つめると、いかにステージ用のゴテゴテしたメイクとはいえ、二人が女性だとはっきりわかる。このバンドは五人が女装しているのではなく、男三人が彼女らに合わせて胸に詰め物を入れているのだ。続いて、僕は「マルエ・ネクターリス」がウィッグのロングヘアを掻き上げて露わにした耳の形がと一致することに気づいた。なんと!

「はぁ」

 兄ちゃんは彼女が人気者になり、どんどん手の届かない存在になっていく切なさに胸を痛めていたのだろうか……。


 ちー兄ちゃんが音信を絶って数日。ルーナ・ダルジェントは解散を発表した。各々、高難度の試験に合格もしくはこれから挑むこと、あるいは留学が決まったそうで、音楽活動は休止するよし。いつか再結成できたら、一からコンセプトを練り直すという。

 僕は睡眠時間を削って、金庫から出てきた角型0号封筒の中身に目を通した。おじいちゃんのオーダーメイドの四百字詰め原稿用紙の束。これまたおじいちゃんの形見の万年筆で、ちー兄ちゃんが書き殴った長編SF小説だ。ザックリ言うと、ある日空から降ってきた卵を温めたら孵化してUFOが生まれたので、呪術師だった亡き祖父の秘薬を飲んで小型化に成功した男が宇宙へ旅立ち……いや、「数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰」というボルヘスの主張に賛同する僕としては、馬鹿馬鹿しいので、これ以上説明する気になれないが、ブルーブラックのインクがところどころ(多分)涙で滲んでいたと付言しておく。

 ただ、現実のちー兄ちゃんは精一杯、身なりを整え、こと座のヴェガならぬマルエ・ネクターリスを追いかけたに違いないと思っている。彼女の渡航先へ、数便遅れのジェット機に乗って。

 ちなみに、七夕の宵は、お誂え向きの三日月だったはずなのだが、僕らの町では生憎ほぼ一日中、ぎんねずいろの雨が降っていた。



               crescent【END】



*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の遁走曲フーガ』にて

 無料でお読みいただけます。


**初出:同上2020年7月(書き下ろし)

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts


***⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/78Uxqthu

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クレッセント 深川夏眠 @fukagawanatsumi

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