『鍵をかけないと、靴がなくなります』のテープ

 言葉ひとつから、背景を想像してしまうときがある。


 近所の銭湯にあるコインが返ってくるタイプの下足箱に、次のような文言が印字された、カラーテープが貼られていた。



『鍵をかけないと、靴がなくなります』



 口調は丁寧ながら、脅しめいた言葉。それは、百を超える下足箱のすべてに、一つの抜けもなくびっしりと貼ってあった。


 銭湯とは、くつろぎの空間だ。ゆっくり湯につかって、日常の不満や鬱憤を一時でも洗い流してほしい。そういう憩いの場を提供する施設であり、そういう暖かい気持ちを持った人が運営しているはずである。


 だから、最初からこの表現で書かれていたとは思えない。下足箱とはいえ、くつろぎ空間の一角をなす場所に並ぶ文字列として、これではあまりに無機質だ。


 もともと下足箱には、何の注意書きもなかったのかもしれない。百円玉を入れて鍵をかけられることは、見ればすぐにわかる。


 しかし、百円玉の持ち合わせがなかったのか、面倒くさかったのか、あるいは「鍵」という道具の存在を知らずに育ったのか、ともかく鍵をかけなかった人がいたのだ。そして、そういう人が靴を盗まれた。


 靴を盗まれた人は、番台に訴える。



「俺の靴がないんだけど? この銭湯、安全管理どうなってんの?」



 彼はまるで、番台が靴を盗んだ犯人であるかのごとく詰め寄ってくる。


 銭湯側としては、二度と同じようなことが起きないように、テープを貼って注意喚起をすることに決めた。


 でも、「靴を盗むな」と書くわけにはいかない。それでは客を泥棒扱いしているみたいだからだ。大半は靴を盗まない善良な客で、彼らに対して注意を促さなければならない。



『鍵をかけましょう』



 最初はきっと、このくらいの穏やかな表現だったことだろう。心がけてほしいことはそれだけだ。


 しかし、それでも鍵をかけない人がいた。彼はやはり番台に訴える。



「俺の靴がないんだけど?」



 番台は答える。



「そういったことがありますので、鍵をかけるように忠告をさせていただいているのですが……」



 すると、彼は苛立ちながら言う。



「鍵かけろって言っただけで、なくなるなんて言ってねーじゃん」



 鍵をかけないことで何が起きるか。さっきの文言だけでは、彼には想像がつかなかったのだ。だって、具体的に書いてないんだもの。


 そして、こうなった。



『鍵をかけないと、靴がなくなります』



 そこには何をしろとも書いていない。「鍵をかけない」=「靴がなくなる」という絶対の因果関係だけが記されている。


 これを見てどうするかは、あなた次第。靴をなくしても、それはお前のせいだ。鍵をかけなければ必ず靴が盗まれると、我々は忠告しているのだから。元号が変わろうが、人の生きる世は常に弱肉強食であると知れ。


 短い文言から、そんな強い思いが読み取れる。


 なんなら、


『鍵をかけない人の靴は、私たちが見せしめに隠します』


 と、続いてもおかしくないくらいの強さだ。想像力がない上に責任を転嫁するような愚か者は靴など盗まれてしまえ。そんな糾弾の意志がある。鍵をかけない人間は、それだけで悪の烙印を押されるのだ。


 靴を盗んだ人間の方は、誰にも何も言われないのに。

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