電車でつり革から手を放す時に注意すべきことは
電車は難しい。特に、つり革から手を放すタイミングが難しい。
つり革を何のために掴んでいるかといえば、走行中によろけないためだ。だからまず、電車が動いている間は手放せない。
となると、つり革から手を放すのは駅に停車中のわずかな時間ということになる。しかし、どんな駅に着いても毎回放せばいいというものでもない。降りない駅だったら、どうせまたすぐ掴むことになる。つり革を放すのは、自分が下車する駅に着いた時だ。
ここで気をつけないといけないのは、自分以外にも乗客はいて、降りる駅があるということだ。例えば、僕の目の前に座っている女性。この女性がある駅で降りるとする。
彼女は、電車がまだ完全には止まっていないタイミングで席から立ち上がる。せっかちな人なのだろう。あるいは、今日だけ急ぐ理由があるのか。
好きなバンドのライブが開演間際なのかも。そんなに好きでもないけど途中入場を罪深く感じる性格なのかも。無茶な乗り換えのためにダッシュしないと間に合わないのかも。時刻表トリックの最中なのかも。フランスに留学する恋人が空港で待っているのかも。やっぱり行かないでよって、最後にもう一度きつく抱きしめてって言うのかも。言わなくても目を見ればわかるのかも。そういうのは家でやってくれた方がいいのかも。
ともかく電車が止まる直前に彼女は立ち上がる。立ってみたら意外と背が高い。ヒールのせいもあるけれど、つり革に頭が届く程だ。彼女は完全に電車が止まるまでの数秒、その立った状態をキープする。
ここだ、難しいのは。つり革は人の手から自由になれば振り子のように揺れる。僕が手を放すと、彼女の頭につり革が当たる可能性があるのだ。空港で恋人の決意を砕いて引き止めるために取ってある涙を、ここで流させるわけにはいかない。これでは迂闊に手放せない。手放しでは手放せない。
じゃあ、僕はのほほんと立っていればいいかというとそうもいかない。つり革を掴んでいる以上、僕と僕の腕とつり革が生み出した障壁が彼女の進路を塞いでいるからだ。だから、本当はすぐにでも手放したい。つり革を放すことさえできればスムーズに送り出せる。でも、放せば頭にぶつかるからできない。
結局僕は、つり革を掴んだまま腕を高く上げて、さらに上げている腕の方に体を寄せて、彼女に通行スペースを提供することになる。さあ、ここを通ってください。こっちへ抜ければ空港はすぐそこですよと。
僕は彼女が去って空いた席に座りながら、心の中でそっとエールを送る。フライトまでに間に合うといいね。本当の気持ちを伝えられるといいね。あいつの心のつり革をしっかり掴んで、もう二度と放すんじゃないよ。
そんな妄想をして扉が閉まったところで、今の駅で自分も降りるはずだったことを思い出す。電車は難しい。
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