丸い赤い変なフタみたいなのを捨ててしまったら

 僕が丸い赤い変なフタみたいなのを初めて見たのは8歳の時だ。


 正体不明のそれは友達のAの家の床に転がっていて、ビンか何かのフタの残骸と思われた。要するにゴミなのだが、真ん中が窪んでいて触り心地が良かったのでなんとなく指でもてあそんでいた。


 しかし、そこまで熱心にもてあそんでいたわけでもなかった。その時に夢中だったのはAの家にあった「マリオペイント」だったからだ。


 マリオペイントはスーパーファミコンソフトだ。画面上に絵を描いたり、五線譜にスタンプで音階を並べて簡単な曲が作れたりした。「決まった目的の為に攻略する」というのがゲームの主流だった時代に「単に自由に絵が描けるだけ」という遊び方のゲームは、かなり画期的だったのじゃないだろうか。


 普通のコントローラーではなく専用の「スーパーファミコンマウス」を使わないと操作が出来なかった。このマウスにはずっしりとした球体が入っている。マウスの底に空いた穴からマウスパッドに球体が触れて、回転することでセンサーの役割を果たした。今のマウスから考えると、とても重い。また、球体に汚れが付くと操作が鈍ってしまう。手入れについては定期的に球を取り出して中性洗剤で洗うことが推奨されていた。


 大変わずらわしい仕様だが、パソコンも一般にはそこまで普及していない時代だ。スーファミすら持っていなかった僕には最先端の道具だった。Aの家は僕の家と同じく築年数が数十年の公団住宅だったが、マリオペイントがあるだけで未来世界だった。僕は一緒に遊びに来ていた同級生のTとともに、キャラクターの落書きを描いたり、曲にもならない曲を適当に作ったりして、そのうち日が暮れた。


 夕方にAの家を去った。しばらく歩いてから、僕はあの丸い赤い変なフタみたいなのをうっかり持って出てきてしまったことに気づいた。どうせゴミなのでAの家に引き返すこともなく、僕はその辺の茂みにそれを捨てた。


 次にAの家に遊びに行ったとき、Tはいなかった。Aは何やらTに怒っているらしく、呼ばなかったのだ。なんでも、Tが前に遊びに来た時にAの物を盗んだとかいう話だった。あんなに楽しかった時間にそんな大犯罪が行われていたとは。とはいえ、Tは普段から疑われがちなやつだったから、珍しいことでもなかった。Tは否定していたようだったけれど、やりかねないなと僕も思った。


 それからしばらくして、僕は親にスーファミを買ってもらえることになった。ソフトも1本だけ買ってもらえる。すでに新しいソフトはたくさん出ていたけれど、Aの家でのプレイ体験が忘れられなかった僕は、最初のソフトとしてマリオペイントを選んだ。ちなみに最後まで候補として悩んでいたのは「スペースインベーダー」のスーファミ版だった。今考えるとなぜそれと競っていたのかはまったくわからない。


 僕が買ってもらったマリオペイントはマウスが同梱されているバージョンで、普通のスーファミのソフトよりもパッケージが大きかった。大きな箱を開けると、Aの家にあったのと同じソフトとマウスとマウスパッドが入っていた。あの最先端ツールが、今日から毎日自分の家で遊べるのだ。僕はウキウキしながらセッティングした。


 さあ、接続しよう、とマウスを箱から取り出すと、底のところに何かがくっついていることに気づいた。


 さっき述べた通り、当時のマウスは中の球体がパッドに触れてセンサーの役目を果たすから、球体が汚れると動作が鈍ってしまう。そのため、使っていない時に球体を保護する為のカバーが付いているのだった。


 そのカバーは赤くて丸くて変なフタのような形状をしていた。


 ああ、なんだかこれどっかで見たことあるなあ。そうだ。Aの家にあった触り心地の良いゴミだ。帰りにその辺の茂みに捨てたやつ。


 ウキウキしていた僕は、一気に青ざめた。あの丸い赤い変なフタみたいなのは、ゴミではなかったのだ。最先端ツールの一部だったのだ。僕はそうとも知らず勝手に持ち出し、あろうことか勝手に捨ててしまった。状況から考えて、AがTにかけていた盗みの疑いの理由もこれに違いなかった。何がTならやりかねないだ。Tは何も悪くなかったのだ。真犯人は僕だったのだから。


 それから、僕は自責の念に駆られた。失くしてそこまで困るものでもないとはいえ、勝手に捨てていいものでもない。その上、濡れ衣まで着せて知らんぷりだ。なんて罪深いことをしてしまったんだ。


 しかし、今更、真実を明かすこともできなかった。というのも、Aはすでに引っ越して転校していたからだ。Tに疑心を抱いたままでAは町を去り、Tは疑いをかけられたまま、濡れ衣の晴れる機会を失った。一人真実を知る僕は、罪を隠しながらのうのうと生きるしかないのだった。こんな思いをするのなら、スペースインベーダーを選んだ方が良かったかもしれない。


 そのまま、現在に至る。


 今やAが住んでいたあの団地すらない。AやTの連絡先もわからない。あれから四半世紀は経つのだから無理もない。


 もしも今、AやTを探し出して、連絡を取って真実を話したら、あの日のことを許してもらえるのだろうか。お詫びとして、僕のマウスのカバーをAに差し出してもいい。


 でも、そんな出来事自体、もう誰も覚えていないのじゃないだろうか。四半世紀もあれば人は様々な経験をする。マリオペイントより楽しいことも、友達とケンカするより嫌なこともあっただろう。仕事や家庭も持っているだろう。僕の知らない悩みだって、たくさん抱えているだろう。子供の頃にスーファミのマウスのカバーを失くしただの、盗まれただの盗んでないだの、そんな些細な記憶を後生大事にとっておく余裕も理由もありはしない。


 だからきっと、マウスのカバーを差し出したらAはこう思うに違いない。なんだこの丸い赤い変なフタみたいなの、って。あの日にはもう、僕しかいないのだ。

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