がっかりスポットがはらむパラドックスについて

 がっかりスポットと呼ばれる観光地がある。有名だけれど実際行ってみたらたいしたことなかった、という場所だ。ブリュッセルの小便小僧や、ローマの真実の口などが知られている。


 しかし、僕はこれがどうも納得いかない。


 わざわざ行きたいと思って行くのだから、実物を見られる経験そのものにまず価値がある。どんな場所であれ、これが本物だという感動はあるはずだ。これが小便小僧の元祖かあ、と思えるだけでそれは嬉しいはずだ。がっかりする理屈なんてあるだろうか。


 思うに、がっかりスポットなんてすぐに言う人たちは、そもそもその場所に思い入れがないんじゃないだろうか。たまたま近くへ旅行して「有名だから一応見ておこう。有名だからなんかすごいんでしょ?」くらいの雑な感覚で見に行ってみたら、思ったよりすごくなかったことを知り、勝手に落胆しているのだ。


 いや、おそらくそこまでがっかりもしていない。本当に興味があって行ったのならば、理想と多少違ったとて、まず受け入れようと思うはずだ。いいところを探すだろう。それでも見つからなくて失望した時に、初めてきちんとがっかりできる。そこまでの心の躍動が彼らにはない。


 だのに、やつらときたら実にあっさりとがっかりしやがる。やれ小さいだの、やれ地味だのと。じゃあ、おのれらはいったいどんな素敵風景を頭に描いていたのか。そこに行けば心が浄化されて生まれ変わるような、どんな夢もかなうような聖地じみたイメージでも持っていたのか。そもそも興味もなかったくせに、そんな都合のいい空想だけ浮かべていたというのか。


 がっかりスポットそのものより、勝手にがっかりスポットなどと名付けて、感動に水を差すような人間にこそがっかりだ。がっかりスポットが本当にがっかりするのかはさておき、そんなことを頼みもしないのに教えてくる連中は正真正銘のがっかり人間で大決定だ。


 と、どこにも行ったことがなく何も言う資格がないのに、そんな誰も得しない憤りを覚えながら、ネットでがっかりスポットの記事を眺めていると、それはそれはたくさん出てくる。たしかにどれもこれも、がっかりしそうな解説をされている。


 どのくらいがっかりするのか、実物を見てみたいな。


 そんな曲がった興味さえ、ちょっと出てきてしまった。僕もがっかりしてみたい。身勝手で過度な期待を裏切られたい。


 ところがここで問題が出てくる。


 もしも実際に現地を訪れてみて、なんだ本当は素晴らしいところじゃないか、実物も立派じゃないかと感じた場合、がっかりすることはできない。これは、がっかりスポットではない。


 一方、みんなの言う通り、しょぼくて期待はずれの場所だなと感じた場合はどうか。この場合、期待はずれは期待通りであり、求めていた結果であるわけだから、こちらもやはり、がっかりすることはできない。これも、がっかりスポットではない。


 つまり、がっかりスポットを求める者は、求めるがゆえに絶対がっかりスポットへたどり着けないのだ。


 まさかこんな哲学的な罠が隠されていようとは。もう僕は、がっかりスポットでがっかりすることは永遠に出来なくなってしまった。こんなに思いを馳せていたのに。打ち明ける前に終わってしまった恋のようだ。


 そんな僕の気も知らずに、小僧は今日も放尿している。

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