バイト中に年上のお姉さんから耳元で囁かれた事

 大学に通っていたハタチくらいの頃、近所のスーパーマーケットでアルバイトをしていた。


 高校の時に短期で年賀状配達のバイトをしたことはあったけれど、本格的なアルバイトをするのは初めてだった。


 担当は水産コーナー。「鮮魚売り場」とかではなく「水産コーナー」という名前で、社員やアルバイトは「水産」と呼んでいた。そういうちょっとした専門用語みたいなものに触れるのが初めてだったので、水産と略すのがなんだか格好いい響きに感じていた。


 今、考えると相当だめなスーパーだったように思う。


 例えば、お客さんに商品のことでわからないことを質問された時はどうしたらいいですか、と社員に聞いたら、


「アルバイトだからわかりません、って言いな」


 と教えられた。


 僕は当時そういうものかと思って言われた通りにしていたけれど、もし今、客の立場でそんなこと言われたらもう二度とその店には行くまい。


 水産の同僚は年下の男子高校生だった。一度、バイト中に突然「ギャザってやってます?」と聞かれたことがあって、僕はルー大柴さんの顔しか浮かばずきょとんとするしかなかった。話を聞くとカードゲームの「マジック・ザ・ギャザリング」のことだった。知っているか知らないか微妙と思われる相手にいきなり「ギャザ」という通称で話題に出すとは度胸がある。


 しかし、彼の一番の特徴はギャザ好きではない。彼は相当な巨漢だった。イメージ的にはトルネコを縦にも横にも増量したような体型。


 どのくらい太っていたかというと、水産コーナーの店員はみんなゴム製の前掛けをしているのだが、彼には身に着けられるサイズの前掛けがないほどだった。トルネコは鉄の前掛けを装備できたのに。


 それで彼はどうしていたかというと、仕方なくサイズの融通が利く精肉コーナーのエプロンを着せられていた。恰幅のいい男が肉屋のエプロンをしていたら、それはもうビジュアル的にはどっからどう見ても肉屋だった。下手すりゃもう肉屋のドン。マイスターだ。実際、お客さんから肉のことを質問されていたこともあった。もちろん彼は「アルバイトだからわかりません」と答えていたけれど。


 バイトで最もつらかったのは排水口の掃除だ。水産コーナーは流し台を使うことが多いため、床も防水性の、水が流れやすい固い素材になっている。だから基本的な掃除はホースで水を撒いてしまえば済むのだが、細かなゴミはすべて排水口に集まって溜まることになる。そして、この排水口を定期的に掃除する機会がある。


 この時の臭いがとにかく途轍もない。水産コーナーであるから、流れ落ちるゴミのほとんどは生魚の類だ。それが溜まりに溜まって生まれる腐臭を想像していただきたい。当時からもう15年くらい経つが僕は今でもあれを思いだせるし、あれ以上の悪臭を経験したことがない。ゾンビってたぶんあんな臭いがするのじゃないかと思っている。


 同僚は一度、この排水口を無謀にもマスクをせずに洗おうとして吐き気をもよおしていた。さすがにマスクのサイズはあっただろうに。


 そんな水産でのアルバイトで、忘れられない出来事が一つある。


 スーパーだからコーナーごとに会計の業務はなく、アルバイトがすることは陳列されている商品の整理や補充、タイムセールを告知するアナウンス、その時間になったら値引きシールを貼る、などだった。魚をさばいたりだとか、重要な仕事は社員がやっていた。


 だからお客さんの少ない時間はだいたい売り場でぼんやり立っているだけだったのだけれど、ある日そんなぼんやり立っている僕に女性が近づいてきた。


 近づいてきた女性はお客さんではなく店員だった。面識はないが、着ている服でレジのパートさんだとわかる。年は20代半ばくらいで、僕より年上に見えた。


 お姉さんは早足でまっすぐ歩いてくると、


「ね。ちょっと」


 と、僕を呼びつけた。


 同じ職場とはいえ、初対面の人間に突然そんなフランクに呼ばれたので僕がいぶかしんでいると、お姉さんはいら立つように、自分から僕のすぐ目の前まで近づいてきた。


「これ別のある?」


 小声でそう言うと、お姉さんは持っていたパック詰めの商品を突きつけるように渡してきた。見れば、それは水産で扱っている刺身の盛り合わせだった。


 彼女は、なぜか今持っているのとは別の刺身の盛り合わせのパックを欲しているらしい。しかし、理由は教えてくれない。そして、なんでわざわざ僕のそばまで早足でやってきたのか。


 ひょっとしたら、無理にでも理由をつけて僕としゃべりたかったのでは。いやいや、お姉さん。勤務中ですよ。


 などと、ありもしない仮定を都合よく想像していると、お姉さんは僕の耳元に顔を近づけてきた。


 え、まさか本当にそういう……。


 と、内心で狼狽していると、お姉さんは吐息交じりの囁き声で言った。



「虫入ってる」



 見ればたしかに、お姉さんの突きつけてきたパックの端っこには、割と大きめのハエが居座っていた。おそらくお客さんが気づかず差し出してきたところを見つけて、慌てて取り換えにきてくれたのだろう。


 事態が事態だけに大きな声で言うわけにもいかなかったし、お客さんを待たせているから焦って気が立っていたのだ。


 お姉さんとの刺激的な関係の始まりをあきらめた僕は刺身のパックを受け取り、ハエが混入していないタイプのパックを探して渡した。彼女はひったくるようにそれを受け取るとレジの方に小走りで戻っていった。


 今のところ、あんなに近い距離で女性に囁かれたことは後にも先にもない。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る