第3話 もうひとりのかぐや姫/「かぐや姫は帰らない」裏バージョン
タバコの煙がもうもうとたちこめ、賑々しい音で埋まったホールの端。オジイサンはそこに一体どれくらい座っていたのでしょうか。
朝、かぐや姫が差し出した離婚届。
なぐり書きで渡した後、財布と鍵、タバコとスマホだけ持って、オジイサンは家をふらりと出てきました。どこに行くか考えるまでもなく、足は勝手にパチンコ屋に向かっていました。それからずっと、何も考えず、ただただ座り続けています。
考えず、というよりは、考えたくない。そして、それを認めたくない。
そんな時にパチンコほどぴったりなものをオジイサンは他に知らないのでした。
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あれからどれくらい経ったのでしょうか。
つい、この前だった気がします。果てしなく遠い昔だった気もします。どっちでも構いません。今でもよく覚えているのです。あの日のことを。
ひと目見て、忘れられなくなってしまった女性のことを。
初めて彼女を見た時、オジイサンの身体に稲妻が走りました。心が震えました。驚きのあまり、身動きできなくなりました。
これは一体なんだろう。
自分で自分が分からなくなりました。
女性とつきあったことはそれまで何度かありました。そこそこモテる方だと思っていました。それでも、こんな気持ちになったことは一度もありませんでした。
それからオジイサンは彼女のことを必死で調べました。
彼女は良家の一人娘で、目に入れても痛くないほど両親が可愛がって育てていること、良家ではあるものの家が傾きかけていて、決して裕福とはいえなくなってきていること、それでも周囲から大切にされていて、彼女に夢中な御曹司たちが何人も求婚していること、彼女はしかし、誰の求婚にも応えていないこと、などが段々と分かってきました。
そこまで分かると、オジイサンは猛烈に働き始めました。オジイサンはお世辞にも育ちがいいとは言えず、学歴も人脈もありませんでした。あるのは度胸と才覚だけでした。それだけを頼りに、とにかくがむしゃらに働いたのです。チャンスがあると思えばなんだってやりました。多少、後ろ暗いことにだって首を突っ込みました。そうやって少しずつチャンスをものにし、ついにはかなりの資産を作ることができました。
そのころ、彼女はまだ誰の求婚も受けず、両親と3人、仲良く暮らしていました。けれども家計はとっくに火の車だったのです。
そこにオジイサンは乗り込みました。
立派な資産と共に、プロポーズをしに。
彼女の両親は反対しました。お金のために結婚してはいけない、本当に好きな人と結婚してほしい、と。でも、彼女は、自分の家の経済状況を良く理解していました。両親はとても良い人たちでしたが、お金のことには疎くて、これから先、さらに苦境に陥ることが目に見えていたのです。そして必要な額は既にかなりなもので、御曹司といえど、そう簡単に手助けできるような額ではなくなっていました。
彼女はオジイサンに尋ねました。
「本当に、私だけを思って一生を送れますか?」と。
オジイサンは誓いました。
「あなただけを思って一生を送ります」と。
「分かりました。あなたが約束を破らない限り、私はあなたの側にいます」
彼女はそう言って、結婚を承諾しました。
それからの人生を、ふたりは共に歩んできました。
彼女はいつも穏やかな笑顔を浮かべ、自分の両親に対するのと同じかそれ以上の敬意と愛情を持ってオジイサンに接し、そっと寄り添ってくれました。オジイサンは天にも昇る心地で毎日を過ごしました。この夢のような日々が永遠に続くと信じていました。
そのうち彼女の顔にわずかながら影が差すことが増えてきました。どうやら子供ができないことを悩んでいる様子です。でも、オジイサンにしてみれば子供がいなくても十二分に幸せだったので、彼女の気持ちが本当のところ、よく理解できてはいませんでした。
彼女のたっての希望で病院で調べましたが、これといった理由は見つかりませんでした。いいと言われたことは全て試してみるも結果は出ず、ともかく体外受精を始めてみたいと彼女が言い出した頃。
かぐや姫と出会ったのでした。
彼女は一瞬でかぐや姫の虜になりました。
それは、彼女に出会った時のかつてのオジイサンのようでした。傍で見ていてその気持ちが分かりすぎるほどよく分かったオジイサンに、かぐや姫を育てることを反対することはできませんでした。正直、どこの馬の骨、いや、どこの生物かも分からないかぐや姫に、そんなにのめり込むのは危険だとも思ったのですが、とてもそんなことは言えません。ただ、黙って見守るよりなかったのです。
そんなオジイサンの気持ちを感じ取ったのか、かぐや姫はオジイサンには今ひとつなつきませんでした。オジイサンも、大切な彼女が横取りされたようで、自分でも子供じみているとは思ったのですが、どうしてもかぐや姫のことを彼女のように手放しで愛することはできませんでした。それでも、3人で過ごした日々は、二人だけの時には見えなかった彼女のまた違った一面を知ることができ、忙しくも充実した日々となったのです。
彼女と暮らし始めてすぐ、オジイサンはカメラを買いました。大切な大切な彼女の全てを残したいと思ったのです。彼女はひどく恥ずかしがって、なかなか写真を撮らせてはくれませんでした。ところがかぐや姫が来てからは、写真を嫌がらないようになりました。それどころか進んで写るようになったのです。これはオジイサンにとって、思ってもいなかった嬉しい誤算でした。かぐや姫が来た最大の利点でした。
かぐや姫が笑ったと言っては写真を撮り。
かぐや姫が泣いたと言っては写真を撮り。
その実、オジイサンは彼女のことを撮りたかったのです。たまには3人で撮りましょうと彼女に言われても、オジイサンは笑うだけでした。自分の写真なんて全く必要なかったからです。
泣いているかぐや姫をあやす彼女、笑い転げる二人、晴れ着を着てすまし顔のかぐや姫とその横で目を細める彼女……。どの写真を見てもすぐに、いつどんな時だったかオジイサンは思い出せます。
たくさんの写真と、たくさんの思い出。
幸せの象徴のはずの写真が、しかし、近頃ではたまればたまるほど、どこか淋しく感じられようになってきました。理由は分かりません。
オジイサンが築いた資産は、彼女の両親のためにその大半を使いました。残ったお金で二人ささやかに暮らしてきましたが、かぐや姫が来てからは出費がかさみ、近頃ではあれだけあった資産の底がいよいよ見え始めてきています。
増えた写真。
減った資産。
以前のオジイサンなら、彼女とかぐや姫にいい暮らしをさせてやるために、すぐにまたバリバリと稼ぎ出したことでしょう。当時オジイサンが開拓したツテやコネは今でもいきていて、一声かければそれなりに稼ぐことはできるはずでした。
けれど今のオジイサンには、なぜかそんな気持ちが沸き上がってこなかったのです。自分でも不思議でした。どうしてだろうと思っていました。
今日、かぐや姫から離婚届を渡された時。
オジイサンは猛烈に腹が立ったのと同時に、心のどこかでこの時を待っていたような気もしたのです。
お金の話なんて正直、どうでも良かった。でも、何か理由をつけなければ二人を納得させることはできないだろう。それならば、渡りに船だ。
勢いのままペンを走らせると、オジイサンは後ろを振り返ることなく、家を出たのでした。
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アイツは、かぐや姫よりよっぽど、いつかオレの元から旅立っていく予感がどこかにあった。
はたからみたら皆、オレが出ていったと思うんだろうが。
実際、そうなんだが。
アイツらがこれからどこでどうやって生きていくつもりか知らんが、まあ、あのかぐや姫がついているんだ、オレが心配することもないだろう。
ずっと側にいたかった。今でも変わらず、そう思っている。約束を破る気も、ない。
でも、そろそろ潮時だ。
オジイサンは空を見上げました。
店の閉店時間になってようやく出た外は、朧月夜。
それとも1日パチンコ屋にこもっていたせいで、目が霞んでいるだけでしょうか。
行けるもんなら、代わりにオレがそっちに行こうかな。
会いたけりゃいつでも上から見下ろせるしな。
しっかり顔が見たけりゃこのスマホに今まで撮った写真が全部、入ってるしな。
ふらふらとおぼつかない足取りで、オジイサンは脇の遊歩道に逸れていきました。
近くのコンビニで買った缶チューハイを片手にベンチに座ります。プルタブを引っ張り、一口呷ると、スマホを取り出して写真を見始めました。
ああ、これは入学式だ。こっちは運動会。
懐かしいなあ、これは初めて海に行った時だ。水着がふたりともよく似合ってる……。
いつしか空は晴れ渡り、月は煌々と輝いています。
その下で、幸せそうな笑みを浮かべたオジイサンは、ベンチに座ったまま身動きひとつしなくなっていました。
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